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第14話 晩年の忠勝

慶長7年(1602)末、忠勝は家康の将軍宣下の儀に先駆けて嫡男·忠政と共に上洛し(「慶長自記」)、当日には家康の背後に列しています(「当代記」)。この際、池田輝政と面会したようです(「黄薇古簡集」)。
また、幕府主導の城郭普請において伊勢組として人足を供出しており(「個人所蔵文書」)、特に慶長10年(1605)の彦根城普請では忠勝自らが出向いて普請の陣頭指揮を取ったようです(「大坂城天守閣所蔵文書」)。
さらに、最晩年にあたる慶長13年(1608)には筒井定次改易に伴う伊賀上野城の撤収作業を命じられており、実際に赴いて任務を遂行しています(「当代記」)。忠勝は隠居を家康に求めたが、断られたという逸話が残されているように冷遇されることは決してなく、上記にある通りむしろ譜代大名の重鎮として晩年まで幕府から重用されているのです。
その一方で、忠勝は井伊家家臣の三浦安久との交流を深めており、安久から近江名物の鮒寿司や尾張大根などが贈られています(「早稲田大学図書館文書」)。鮒寿司は何度も贈られているようなので、忠勝の好物だった可能性が高いです。また、ある年の7月22日には関ヶ原合戦の談議で盛り上がったようです(「中村不能斎採集文書」)。

三浦安久に宛てた書状。「関ヶ原にての様子」を語り、彼らの記憶が合致していたとある。

彦根城普請の際には、同じく井伊家家臣の宇津木勝三郎へもてなしを謝する礼状を送っており、主君・井伊直勝との交流も窺えます。

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