大学教員は「教育者」か、「研究者」か。
こんにちは。
夏休みも終わり、学校が始まり約1ヶ月が経ちました。
夏休みは前回の記事の通り、自分の研究や教育関係の事業でものすごく忙しくしておりました。
そうした中で、最近感じている疑問があります。
それは、「大学教授は研究者か、教育者か」ということです。
皆さんはどのように思いますか?
今回の記事では、私なりの見解と理想像(自分の目指すべき将来像)についてお話ししたいと思います!
端的に結論から言えば、教授は「研究者でもあり教育者である」と思っています。
まず大学教授になるためのステップとしては、大学院(修士・博士課程)の間に研究論文や学会発表などの実績を積み、大学に就職すると言う流れが一般的です。
非常勤にしろ専任にしろ、就職先でも授業を持ちながら常に自分の研究を進め、実績を積まねばなりません。
授業も、基本的には自分の専門に基づいた内容を生徒に教えます。
自分の知識、研究成果、論文執筆のアドバイスなどを共有する機会が授業にはあります。
そういう意味で、大学の先生は研究者/学者であると言えます。
では、大学教員は自分の研究だけに専念し、それを通して培った知見を共有するだけで成り立つでしょうか。
授業内外での生徒とのコミュニケーションを通して、自分の学生に専門知識以外のことを教え育てることが全くないとは思えません。
実際私も、授業でしか関わりのなかった先生方もいます。
しかし、その先生方からも吸収すべきことは多くあったように思えます。
例えば、ある教授は映画を年間数百本視聴する方で、その評価やレビューを記録しており、半年ごとに先生的ベスト映画ランキングを教えてくださいました。
その先生曰く、自分の「大好き」から発想をして文学作品を分析することが可能であると教えてくれました。
マイケルジャクソンが大好きなら、どんどん深掘りすればいい。深掘りして突き詰めればそれで一本の卒論になる。好きなもので書かないなんて勿体無いし、そうじゃなきゃあんな長い文章書くの苦でしかないでしょ、と。
また、絵画が好きなら、例えばジョン・エヴァレット・ミレー の『オフィーリア』に描かれたオフィーリアからシェイクスピアの『ハムレット』を分析しても面白い、と。
この考え方が大学1年生の私にとってはとても斬新で、驚嘆したのを覚えています。
これがきっかけで、将来のことを考える際も「好き」から発想を膨らませるようになりました。
そしてその「好き」たちが、自分の価値観や理想像の源泉になっていることもあるんだなと気付かされました。
その気づきのおかげで今、私は博士課程で初期近代の英文学を勉強することができています。
またある教授は、勉強に私生活に色々とうまくいってなくて悩んでいた時、それに気づいてくれました。
大丈夫?悩んでない?と声かけてくれました。
また、私の勉強不足でリサーチが足りなかったときにはしっかりと厳しく指摘もしてくださいました。
悔しくてその先生の前で泣いたこともあります。
このような過程から、人生のup and downに対する対処法や対応力、忍耐強さや探究心など数え切れないほどのかけがえのないレッスンを教わりました。
先生方の授業内での発言や授業外での気遣いなど、結構自分の人生に影響を与えていることに気がつきました。
だからこそ、大学教授は単に自分の研究を極め、その過程で培った知識を学生に教授することだけではないと思います。
それらを通して、私たちに少なからずさまざまな影響を与えているはずです。
大学という教育現場で教鞭を取るからこそ、不特定多数の大学生を相手にするわけですから、些細な発言や行動には要注意だと思います。
知識や持論の一方的な押し付け・植え付けは教育とは言えないと思います。
大学教授もまた、教育者です。そうであるべきです。
したがって、私は以下のことを守れる教授になりたいと考えています。
きっとまだまだ意識すべき観点はたくさんあると思います。
思いつくたびにこちらにか書き足していきたいなと思います。
何を軸にして仕事をするかというのは人によって様々です。
教授もまた然りだと思います。
少なくとも私は誰の可能性も奪わない、発想の妨げにならないような教育者になりたいと思っています。
機会があればその都度多くの学生に還元してあげられるような先生になりたいです。
その上で、自分の研究を楽しみたいです。
私が面白いと感じるもの共有しつつ、学生が興味深いと思うものを知り、私もそれについて深く勉強したいです。
だから私は、教授は研究者でもあり教育者であるべきだと考えます。
最後まで読んでくださりありがとうございました。
今回も熱く語ってしまいました。
ぜひ、みなさんのご意見もお聞かせください!
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