「ありたい自分である」ために、経験を積み重ねる〜SWEへの挑戦を続ける髙橋さんのキャリア〜
今回は、SREの髙橋さんのキャリアをご紹介します。
現在は主にSREの仕事をしています。LAPRASではKuberetes(EKS)とAWSを使ってプロダクトを運営しているので、それらを整備することで、サービスを安定して提供できるようにしています。それ以外にも、兼任で情シスを担当して、社内システムのメンテナンス等もしています。
元々は大学を卒業して以来アプリケーションエンジニアをしており、LAPRASにもSWEとして入社しているのですが、入社して1年ほどでSREに役割を変更しました。そのため、「一切コード周りは触らない」というインフラ担当とは少し異なり、バグを直したり、テクニカルサポートとして社内のオンコール対応をしたり、負債化しているシステムのリアーキテクトをしたりとアプリの部分にも関わっています。
音楽を通じて知ったインターネットの世界
世代的な特徴だと思うのですが、自分自身は「PCが面白い」と思ったタイミングと「エンジニアを仕事にしよう」と思ったタイミングにズレがあります。自分が小中学生だった2000年代前半は家や学校のパソコン教室にWindowsのPCが置いてあって、”プログラミング”ということを意識せずに、なんとなくパソコンを使って何かを作るということを、10代で経験している世代だと思うんです。
当時はSNSはおろかまだブログという文化も根付いておらず、ホームページを作るために「忍者ツールズ」というWebホスティングサービスを使って、ゲーム音楽の耳コピをしたMIDIを置いておくと、掲示板でリアクションがもらえたり交流が生まれたり…ということでインターネットの世界を楽しんでいました。中学校の時に科学部だったのですが、隣にパソコン部があって、そこの部員と仲良くなって色々と教えてもらってホームページを作っていました。
インターネットの先には色々な人がいて、例えば2ちゃんねるに行けばゲーム音楽とか、DTM(Desk Top Musicの略で、パソコンを使用して音楽を作成編集する事の総称)の専門的な話ができたのが、当時はすごく楽しかったんです。PCに関しては今のような基礎教養ではなく、「好きな人だけが触っていれば良い」という時代だったと思います。
ただその後ちょっと飽きてしまったのもあり、またYouTubeなどの台頭の影響もあって、DTMよりバンドや楽器演奏の方が楽しくなってきて、何かをインターネットで作ったりということからは離れました。大学で軽音サークルに入ってからは、音楽をコンピューターで再現して楽しむというよりはツールとしてパソコンを使うようになりました。
2000年代後半で、初音ミクが流行っていた時期だったと思うのですが、それに反抗しておじさんたちがやっているような、古い日本の音楽の方がかっこいいなと思い始めて、自分はYMO(イエロー・マジック・オーケストラ)とかを聴いてました。
「生きていくための仕事」として選んだエンジニア職
その後エンジニアとして就職したのですが、まず大前提として、そんなに積極的な意思決定があった訳じゃないんです。行っていた大学自体が情報系なのに音楽やCGの授業も受けられたので、音楽やメディア系に進む人が多かったんですが、懐の感じを見てると正直大変そうだなと…。それを見て「自分でも首にならずに、ちゃんとお金が稼げて生活が続けられる仕事」が何かと考えた結果、パソコンを触るのは嫌いでなかったのでシステムエンジニアを仕事に選びました。
また、就活中に東日本震災があった年だったので、あまり社会的にも自分としても「好き勝手に暮らしていこう!」みたいな気持ちは持てずちゃんと残業代も払ってくれそうな堅実そうな会社に入って金銭的にも安定したほうが良いだろうという、おおよそ技術とは何も関係ない価値観で、内定をいただいた会社に就職しました。
そうやって新卒で入社した独立系のSIerで、エンジニアとして金融系のシステムを担当しました。画面はVB.NETという言語で作られていたのですが、一番基幹になるシステムはCOBOLでできていたので、現場ではコボラーのおじさん達に囲まれて、可愛がられ、育ててもらった感じがあります。
社内外の技術のギャップから初めての転職へ
当時は自分のいる環境がレガシーかどうかも分からない状態で4年くらい頑張っていたのですが、自分が実務で使っている技術と、SNSや技術系メディアから流れてくる「これからはクラウドの時代らしい」みたいな感覚の間に乖離があるんじゃないかと不安に思い始めました。そこでプロジェクトを移動させてもらいました。基盤がWindowsからLinuxになり、JavaやSPAを使った比較的にモダンなプロジェクトに入りました。
そのプロジェクトに2年ほどいたのですが「お客さんが喜んで終わりじゃなくて、エンジニアとして新しい技術を習得し続けないとまずい」という意識に次第に変わってきて、例えばオンプレミスだけではなくAWSの経験もないと35歳でエンジニアとしてご飯が食べれなくなるんじゃないかという危機感が強くなり、転職を決意しました。
ちょうどその頃、ハッカソン(新しい技術製品やソリューションを構築するために人々が集まり、一定の期間で開発を行うイベント)に参加する機会があり、AWSやIBMのクラウドサービスに触れる機会があったんですが、ちゃんと調べて理解できれば、難しそうなものでも思った以上に簡単に作れる。」という事実に対して衝撃がありました。今までの現場で見てきた「何年も同じ場所で経験を積むことでしか得られない知識」ではない、新しい知識があるのであれば、それを学びたいということも、環境を変える後押しとなりました。
ECサイト運用の経験を経て、LAPRASへ
その転職の際には、まずはAWSを絶対に触れるようになりたいと思っていたので、「AWS」というキーワードで求人を探していました。また、今まで作っていたのが、顧客の社内システムだったので、エンドユーザーと接するようなシステムに携わってみたいと思っていました。それらの観点で、とある小売大手企業の社内エンジニアに転職しました。その会社はかなり早い時点からAWSを使ってシステムを内製化していたことも、転職の決め手になりました。
そこでは運用フェーズに入ったポイントカードのシステムやECの受発注管理のシステムを担当し、消費増税や新規施策に対して対応できるよう、既存のシステムを調査して、直して…ということをやっていました。SIerでは「許可をとってシステムを直す」ということが日常だったのですが、ここでは「エンジニアが自由に作っていいけど、壊れたなら自分たちで直す」という文化だったので、そのおかげで色々とチャレンジできたのが本当に良かったと思います。
そこで2年くらいやって、一通りの仕事を覚えた時点で、コロナ禍になり事業の状況が変わりました。そこで、タイミングとしてもちょうど良いと思い、別のカルチャーがあるであろうSaaS業界への転職を決意しました。
LAPRASは公開された当初からユーザーとして利用していたのですが、転職しようと思ったタイミングでたまたまカジュアル面談の機会をもらうことができ、そのまま選考を受けて入社することとなりました。
LAPRAS入社後に迎えた岐路
冒頭でも話した通り、LAPRASには当初アプリケーションエンジニアとして入社してプロダクト開発に携わっていたのですが1年くらいで、showwinさんという創業メンバーであり当時唯一の専任SREだったメンバーの退職が決まりました。そこで、SREに立候補して、今に繋がるという感じです。
SREに立候補した理由としては色々あるのですが。あらゆる問題が発生したフェーズで、人間にできることは「適応するか、逃げるか、戦うか」の3つだと思っていて。ただ、自分の場合は争いごとが好きでないというか、「他の人を困らせてでも自己を貫きたい」という気持ちも薄いので、状況に対して、自身のアプリケーションエンジニアとしてのキャリアを守るための行動を取るといったことは選択肢にありませんでした。
その中で「適応する」を選んだのは、誰かがやらないといけない仕事がある状況で「適応するか、逃げるか」を考えた時に「適応できる人間でありたい」と思ったというのが大きいです。退職が組織や人間関係の問題じゃなかったというのも大きかったと思っていて、ただ担当者がいなくなるというだけなら、きっと自分でもなんとかできる問題だと思いました。
ですし、元々コンピューターをいじってること自体がうっすらと好きだからシステムエンジニアになったようなものなので、それさえ満たせていればどんなキャリアであってもそんなに嫌ではないなと思ったこともあり、SREを引き受けることにしました。あとは、自分より前にいたエンジニアが兼任で「退職者の穴埋めをしている」状態だとやはりそれ以上の成果が出ないというか、それよりは、自分がちゃんと専任になって上手くやれるかチャレンジした方が良いんじゃないかと思ったことも理由です。
ある意味、前職や前前職で「逃げる」を選ばなかった世界線というか、そこで今回は「逃げる」んじゃなくて「適応する」自分でありたいと考えたのかもしれません。
きっと、今までの会社も、辞めなくて済みそうな方法を知っていたなら、そこまで辞めたくなかったと思うんです。転職やコロナの流行のような環境が大きく変わる状況って、少なからず「サイコロが振れる感じ」というか、高い目が出るまで人生の中でサイコロを振り続けてうまく行けば良いけれど、それは自分ではコントロールできない部分があるじゃないですか。
それよりは、自分がコントロールできることに集中して、「自分ができなかったことができるようになる」ことを積み重ねて行くほうが、人生も楽しいと思っていて。そう考えると、前任者の退職は「コロナの流行」とかみたいに太刀打ちができないものじゃなくて、自分が頑張ればなんとかなるし、頑張りきれれば自分自身にもスキルがつくものなので、そこを環境のせいにして逃げたくなかったというのがあるかなと思います。
ちなみにカッコよくない理由としては、まだ入社して1年未満で、他にエンジニアにまだまだ教えてもらいたいことがたくさんあるのに、兼任が嫌で辞めるエンジニアが出たら、やってらんないなというのも正直あって、自分がSREを引き受けました笑
サイコロに任せず、自分で積み上げるキャリア
今振り返っても、あの時SREを引き受けて良かったと思っています。引き受けたことで、本当はどんな会社にいたとしても辞める以外にもできることだったり選択肢があったりして、「他のこともやれる可能性がある!」と自分が思ってさえいれば、転職以外でも色んなチャレンジの方法があると分かったことは大きかったです。
何かが達成できたり、環境が変わった時に「じゃあいっか」と思って転職してサイコロに任せるよりは、どこにいても「自分が他にやれることがあるんじゃないか」と探せる人の方が、強いんじゃないかと思っていて、そういう人でありたいと今は思っています。なのでこれからも、何でも屋さんみたいな立場にはならないようにその都度専門性をつけつつ、いろんな環境に適応できるエンジニアになれればと思っています。
今回は、SWEからSREに役割を変え、チャレンジを続ける、髙橋さんにこれまでのキャリアについて伺いました。
「こうなりたい」ではなく「こうありたい」という、自分のスタンスや心の持ちようからキャリアを積み重ねていく髙橋さんの姿は、穏やかに見えつつも非常にチャレンジングで面白いと思いました。
LAPRASでは現在、一緒に働くエンジニアメンバーを募集しています。興味を持っていただいた方はぜひお気軽にお声かけください!
また次回、別のLAPRASメンバーのキャリアをお届けできればと思います。ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
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