わたしの目の話

今の世の中には「ハラ」がたくさんある。

セクハラ。
パワハラ。
アカハラ。
ドクハラ。
モラハラ。

モラハラ、という「ハラ」があることはつい最近知った。
どういう「ハラ」かを調べて見たが、パワハラとの区別がよくわからず、ちとややこしかった。
いずれも和製英語であり、不穏な気配をはらむ言葉たちである。
できれば関わり合いになりたくはない。

しかし、自分が加害者側にならぬよう気をつけることはできても、被害者側になるのを避けられない場合はある。わたし自身も、自ら望んだわけではないのに、否応なしに「ドクハラ」とめいっぱい関わりを持つことになった体験があった。理不尽で、屈辱的で、心傷つく体験だった。20年近く経った今でさえ、なかなか忘れることのできない最悪な出である。病気になってしまったことが自分の罪であるかのような、それによって自分自身が卑小な存在になり果ててしまったかのような、そんな思いにさせられた体験だった。

18年前わたしは目を患った。詳細は省くが、なんだか最近見えにくくなったなーと訪れた町の眼科で病気が発見され、その時にはかなり病状が進行していた。そこで紹介してもらった総合病院の眼科で治療を受けることになったが、経過ははかばかしくなく、日を追うごとにどんどん曇っていく視界に恐怖するしかない毎日だった。
わたしは筋金入りの活字中毒者だったから、本が読めなくなるということを想像するだけで恐ろしかった。実際読むことはしだいに困難になっていった。しかし、何より恐ろしかったのは、親しい人たち、中でも自分の息子たちの顔が見分けられなくなっていくことだった。
わたし、もしかすると、もう二度と子どもたちの顔を見ることができなくなるのかな?このままじゃきっとそうなる。そう自問自答して、能天気な性分だったわたしもさすがに落ち込んだ。

どんどん悪化していくわたしの状態にやきもきした母が動いてくれたことで、膠着状態だった状況に変化が起きた。母の高校時代の友人が眼科医をしていて母とはずっと親交が続いており、その人にわたしの窮状を訴えたら、彼女は知り合いの名医と名高い先生を紹介してくれたのである。子どもの頃よく遊んでくれた彼女は、わたしにとっては優しい親戚のおばさんのような人だった。彼女にすべてを任せようと母とわたしは心を決め、紹介してもらった眼科医を訪れた。

もうかなりご高齢だったその方は、遠方からも患者が日々多数訪れる、知る人ぞ知る名眼科医だった。気さくで、なかなか豪快な人でもあった。
先生はわたしの眼底を見るなり「左の方は凄まじいことになっとるな」とあっさりおっしゃった。
先生?わたし目の前にいるんですけど?
そして、わたしに付き添ってきてくれた母の友人であるM先生(としておこう)に「あんたも見てみるか?」

M先生震え上がって、「いやや、わたしそんなん見るの怖い」
M先生…。
そんなこと言われたわたしの方が千倍も怖いんですけど?
お医者さまというものはある意味ものすごく神経が太いのかも、と思わず心中で突っ込んでしまったわたしであった。

「まあ、右の方はまだなんとかなりそうやな」と豪快なH先生(としておく)はおっしゃった。そしてH先生の奥様(ご主人の手伝いをしておられた)がわたしの眼底写真を撮ってくださったのだが、出来上がったものを見て、「わあ、ホラー写真やね」
……。

H先生の病院は、どうやら先生含めすべてのスタッフが豪快な人々のようだった。患者を目の前にして話す言葉が一々ヤバかった。もちろん悪意も何もないしすごく親切で丁寧な扱いをしてくださるのだが、当時のわたしのガラスのように脆くなっていた神経にはけっこうこたえた。でも、もちろんこれが「ドクハラ」との遭遇だったわけではない。彼らは善意の方たちだった。何より、心からわたしの状態を心配し、いろいろ回復の可能性を検討してくださった。

結局H先生は「こういうケースは〇〇くんがいいやろ」と、某国立大学医学部の眼科の助教授(現在の准教授かな)に紹介状を書いてくださった。かつての教え子の一人らしかった。手術で回復する可能性がまだある、とH先生がおっしゃったとき、陳腐な形容だが闇に一筋の光が射したような期待と安堵感がわたしの中に湧き上がった。もしかすると、またちゃんと見えるようになれるかもしれない。

もちろん100%保証されたわけではなく、あくまでも一縷の望みと言う感じだったが、希望というものは人間の心を救ってくれる。本来のんきもので楽天的なわたしはH先生のおかげでかなり浮上できたのだった。その見込みが甘すぎたことをあとで思い知らされることになるのだが。

某国立大医学部及びその付属病院は、幸運なことに、わたしの実家からバスで15分、車だと10分もかからない近距離にあった。それだけでも随分気が樂だった。遠方の病院まではるばる通うのは当時のわたしの目の状態では非常にきつかったし、入院・手術ということになればつきそってくれる家族にも迷惑をかける。だがこの近距離ならそういう問題に心を煩わされずにすむ。ありがたかった。
そんなこんなでかなり楽観的なわたしだったが、H先生の紹介してくださったO助教授(としておきましょう)と直接面談するまでに、長時間の検査が待っていた。正直あの検査はものすごくしんどかった。さまざまな機械を駆使しての検査を受けていくうちに、どんどん不安が募ってもきた。やっぱりわたしの目、ものすごく悪いのかしら。
それでも検査に携わった先生や若い(おそらくは)研究生たちはみな優しくて親切だった。決してビジネスライクではなかった。恐怖と不安をいっぱい抱えている患者を扱う時は、このように優しく扱ってくれるのが望ましい。

長時間に及んだ検査のあと、いよいよO助教授の診察が始まった。最初から、なんだか雰囲気がいやだった。助教授は難しい顔をし、こちらが丁寧に挨拶してもろくに顔も上げず、わたしの目の検査結果をしげしげと眺めて、近くにいた助手らしき人に英語でぺらぺらと話しかけた。
「めちゃっくちゃ悪いね、この人の目。酷い状態だね」
その後も英語でいろいろ助手を相手にしゃべり続けた。こちらを完全に無視したまま。
まずこれにカチンときた。
その程度の英語がわからないと思ってる?わたしも、そしてつきそってくれているわたしの母も、一応英文科卒ですよ?当時わたしは現役の英語科の非常勤講師でもあった。もし一介の患者如きにわからないと思って英語でペラペラ本人の酷い状態をしゃべっているのだとしたら、バカにし過ぎだし、失礼極まりないし、意地が悪い、と言うより悪意すら感じる。わたしはちゃんと手順を踏んでここを受診しているのに。H先生の紹介状も持ってきたのに。

だが、甘かった。いくらかつての先生教え子の関係でも、H先生はもうご高齢で一介の開業医(と助教授は思っているんだろう)に過ぎないのだ。そして、実はあとでわかったことだが、それまでわたしがかかっていた某総合病院の眼科部長(わたしの担当医)とこのO助教授は、親の代でコネクションがあったのだった。わたしがセカンドオピニオンを求めて他の眼科に行きたいと訴えたことで、その担当医はかなり気を悪くしていたのだった。そして、もちろんその担当医からも紹介状をもらっていたのだが、そこにわたしとわたしの親の悪口が書かれていたらしい(と言うことを別のコネクションを通じて後に知った)。モンペ(モンスターペイシェント)とモンペ(モンスターペアレント)というわけだ。

もちろん、O助教授が感じ悪かったのは、そういう人間関係だけが理由ではなかったと思う。要は、これほど悪化するまで気がつかず、手遅れに近くなって泣きついてくるようなアホな患者のことを、心からバカにしている気配があった。彼の言葉の端々にそれがちらついていた。

「それで、どうしてほしいの?」
「あの、手術は…」
「あなたねえ、風邪ひきに手術する?何でもかんでも手術すれば治るってものじゃないんだよ」

風邪ひきに手術するかって言葉を何度も繰り返された。これほど馬鹿にした言い方があるだろうか。

「〇〇先生(例の担当医)のやり方のどこが気に入らないの。今の段階で手術しても別に変わらないよ。手術が必要になるのは、もっと悪化して失明の危険の直前まで行った時くらいだよ。風邪ひきに手術したりはしないでしょ?」

わたしは決して誇張していない。わたしと、つきそってきた母に向かって、O助教授は何度も風邪ひきという言葉を強調した。

「で?来たければこのまうちに来てもらってもいいけど、〇〇先生の治療と変わらないよ。それでもよければどうぞ」

ここまで言われて、じゃあお願いします、とは普通言えまい。
暗に「来るな」と言われていることは歴然としていたから。
どっぷり落ち込み、それ以上にバカ扱いされたことに傷つき、とりあえず診断の結果を母の友人のM先生に電話で伝えた。彼女もショックを受け、悲しんでいる様子だった。明らかにわかる沈んだ声で、「そう。そうやったの。お疲れ様やったねえ。とにかく、もう少し考えてみるから待っててね」と慰めてくれた。けれど、わたしも母ももうぬか喜びはしたくなかった。たぶんこの後の数日間が、わたしのこれまでの人生においで最悪の期間だったと思う。


その後のことを簡単にお話ししよう。わたしも母も望みは持っていなかったのだが、最終的にM先生は素晴らしい先生を紹介してくださったのだった。海外でも高名な、眼科の手術にかけては第一人者と言われているS先生だった。S先生はわたしの目を診て、「手術しましょう。手術しかないでしょう」とおっしゃった。
びっくりした。
O助教授は、今の段階で手術なんかあり得ない、と断言したのだ。
二人の言っていることは真逆だった。

これもあとで知ったのだが、眼科医の世界でも、わたしの目のようなケースを扱う場合、手術する派と手術しない派で意見が分かれているということだった。正直目の手術と聴くだけで怖かったけれど、わたしはそれに賭けることにした。S先生は信頼できる方だと直感したから。

手術はできるだけ早い方がいいと予定もさっと入れて下さり、まずは悪い方の左目の、次に期間をおいて少しは望みのあるらしい右目の手術を受けた。それぞれ2週間から3週間の入院だった。そして退院した後も長く通院が続いた。手術後しばらく経ってもなかなか見えるようにならなかったが、時間をかけて徐々にわたしの目は回復していった。元通りにはならなかったけれど、おかげさまでなんとか日常生活をおくれるくらいにまで改善された。
もちろん仕事も辞めなきゃならなかったし、車も運転できなくなった。でも、息子たちの顔は見ることができるようになったのだ。少々ぼやけて歪んではいるけれどね。それだけでもS先生にいくら感謝してもし足りない。もちろんM先生にも。


もしO助教授の言うことに従っていたら今のわたしの生活はないだろう。あの時受けたドクハラの傷跡は今も完全に癒えてはいない。「ハラ」の犠牲者は、それがどのような「ハラ」であっても、深く傷つくことに変わりはないのだ。心も、時には身体も。尊厳を踏みにじられ、存在自体を否定されるような苦しみを体験するのである。だからこそ、万が一にも自分自身が「ハラ」の加害者側になることがあってはならないと、強く自分を戒める。それはある意味、人の心を殺すことと同じだから。

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