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世界平和なんて来ないってツイートしようと思ったけど
世界平和なんて来ないって、そうツイートしようと思った。
「どんなに環境問題を訴えていても経済格差には興味がないかもしれないし、どんなに女性の権利のために活動していてもその人がファストファッションを着ていれば労働者の人権を侵害しているかもしてれない。結局人間は不完全で、全ての問題に気を配ることなんてできない。この世に存在する人間全員が全知全能にならなきゃ世界平和なんて訪れない」
どんな活動も結局意味無いんじゃないの?空虚な世界だなぁ
文字にしだしたところで、どうしてか分からないけどふいにどこかで聞いた話をふと思い出した。
『孔子が道端で重い荷物に苦しんでいる一頭の牛を見つける。孔子がその牛を助けると、弟子は「国中に苦しんでいる牛がたくさんいるのにその一頭を助けたところで意味がないんじゃないか」と言う。それに対して孔子は「今ここにいる一頭の牛を哀れに思ったから助けたのだ」と答えた』
みたいな。
私のツイートしようとしたことって、まさにこの弟子が言ったことと同じだよなぁと思った。
確かに私たちは不完全で、無力で、このたった100年くらいの限られた人生の中でひろいひろい世界を平和にすることなんてできないかもしれない。
どんなにより良い社会のために何かに取り組んでいても、自分で気づかないうちに世界の平和を乱しているかもしれない。
だけど、じゃあこのちっぽけな個人が何かをすることに意味がないのかと言えばそんなわけないのだ。
今目の前の問題に取り組むことで、何もしないより世界は平和になる。
社会を見るときにまず大切なのって、マクロじゃなくてマイクロな視点で物事を考えることだと思う。
大きなスケールで見ていたら、怯えてしまって何もできない。
切り詰めて、切りて詰めて、切り詰め切ったところにちっぽけな私たちにもできることがあるのだ。
誰かが起こしたひとつの行動が、世界全体を今すぐ変えることはなくても、誰かの人生全体を180°変えるかもしれない。
小さなことの積み重ねが、きっと世界をもっと良くする。
それにもう、今は21世紀だ。
初めはたった一人の小さな善意かもしれないけれど、それを発信することで「その問題自体に気づいていなかった人」の心を動かすことができるかもしれない。
社会学の授業で習ったけれど、人間は存在するものに名前を付ける。
それは「概念」の存在にも言えることで、ほんの少し前までLGBTという概念すらなかった。だけどそれに誰かがLGBTという「名前」を付けたからこそ私たちは今こうしてその概念を知ることができたのだ。
名前をつけるだけだっていい。
国際協力だって、デモ活動だって、ちょっとした人助けだって、
自分が本気で、真摯にその問題に取り組んでいるなら世界はきっと良い方に変わる。
人間はいつだって誰だって不完全だ。
その不完全さを「なにもしていない外野」が指摘する権利はない。