Lapin Ange獣医師の「ネットで見たんだけど・・」 #18: ゾンビがやってくる
ほぼ1年前,本シリーズ記事の番外編『イヌにドラッグ・・・米国事情』の中で,米国の薬物問題「オピオイド クライシス」に触れ,日本でも娯楽目的で摂取されるレクリエーション ドラッグが社会に浸透しつつあること,また若年者の間ではカジュアルドラッグ(薬局で普通に購入できる風邪薬や咳止め薬など)の大量摂取 オーバードーズが流行していること,そして各種ドラッグが家庭に存在する率や量が増えることで,ワンちゃんの中毒事故につながるリスクについて述べました。
誰もが予想した通り,その後も世界の薬物問題はさらに深刻化,米国では年間の薬物過剰摂取死亡者数が11万人という非常事態となっています。 1月に放送されたNHKの番組「フランケンシュタインの誘惑」では,このオピオイドクライシスを取り上げ,大富豪Sackler 一族がオーナーである製薬会社 Purdue Pharma 社が,オピオイド系鎮痛薬オキシコンチンを「不適切な」販売戦略で売りまくったことで,依存症患者が爆発的に増加したことを紹介していました。
日本でも,昨年12月,大阪の女子高生がオーバードーズで亡くなり,出会い系サイトで知り合ったという58歳の男が,体調不良に陥った彼女を自宅に連れ帰って放置,死亡させたとして逮捕(その後不起訴処分になりました)されるという事件も発生しました。 同月,厚労省はこれら薬剤の乱用を防ぐための販売制度案をまとめるとともに,適正な販売を薬局やドラッグストアなどに求めるよう,都道府県などに通知しました。 今「オーバードーズ」で検索すると,日本中の自治体や公的機関がこの数か月のうちにwebサイトに掲載した,オーバードーズに関する解説や注意事項が多数ヒットします。 また,あのアメフト部でも,今年になって新たに部員が書類送検されたことで同部の立件は10人を超え,この学問の府における薬物汚染が,「一部の特殊な人間」による事件ではないことが明らかになっています。
現状,日本のほとんどのワンちゃんオーナーさんには縁遠い話とは思いますが,将来においてもそうとは言い切れないところもあり,私たちのすぐ近くに迫っている状況について,もう少し触れてみます。
ゾンビ
薬物に関して「ゾンビ」と称されるものが2種類あります。
1つは,薬物の影響によるゾンビのような異常行動です。 何年か前,フロリダで発生した殺人事件の容疑者の大学生は,警官が駆けつけたとき,自分が刺殺した被害者の身体に噛み付いていたそうで,彼は薬物の影響下にあったとのことです。 おぞましい事件ですが,米国に限らず世界中に存在する,より深い闇が,戦争と薬物の関係です。 現在も戦闘が続いているウクライナの戦場において,ロシア兵に薬物が配布されているという話は各国メディアが報じており,CNNもウクライナ兵の話として「彼らは撃たれても倒れず,味方の犠牲を意にも介せずにゾンビのように歩を進めてくる」と伝えています。 極限状態で戦う兵士を恐怖や苦痛から解放するために覚醒剤などの薬物を使うのは,古くから各国で行われてきました。 日本も例外ではなく,戦後の芸能界に蔓延ったヒロポンなども戦中から用いられ,出撃前の特攻兵に注射を打ったり,覚醒剤入りのチョコレートを与えたという話もよく聞きます。 市川崑監督の映画「犬神家の一族」において,犬神家の当主,犬神佐兵衛は,軍需産業としての麻薬製造(横溝正史の原作では製糸業でしたね)で莫大な財を成したと描かれています。
もう1つのゾンビ,米国で重大な問題となっていて,その脅威が欧州にも及びつつある「ゾンビ ドラッグ」と呼ばれるものがあります。 モルヒネやヘロインよりもずっと強力な合成オピオイド鎮痛剤であるフェンタニルと,鎮静剤キシラジンを組み合わせたものです。 非常に強力な作用を持ちながら比較的安価に合成できるフェンタニルは今,米国のオピオイドの中心となり,冒頭に記した年間の薬物過剰摂取死亡者11万人のうち7万人以上が,フェンタニルを含む薬剤によるものです。 このフェンタニルに,鎮静剤キシラジンを加えることで,さらにその作用が増強される(→ 製造・販売者の利益が激増する)ため,流通量が急増しているそうです。 「トランク」とも呼ばれるキシラジンは,強力な鎮静作用により牛などに用いられる動物用医薬品で,ヒトへの使用は認められていません。 これをヒトに投与すると,皮膚傷害を起こす(「ゾンビ」という呼称の由来)のですが,通常のオピオイド中毒の治療薬(ナロキソンなど)が効かないため,特に危険です。 ゾンビドラッグを望んで摂取しなくても,ヘロインなどと思って購入したドラッグにフェンタニルやキシラジンが混ぜられていて,重大な結果を招くというケースも多発しているようです。 2023年,バイデン政権は,このフェンタニルとキシラジンの併用を米国家に対する新たな脅威として指定し,対処するための国家対応計画を発表しました。
ちなみに,映画やドラマで見られるように,米国のドラッグはメキシコのカルテルが主な供給源ですが,その原料となるフェンタニルの多くは中国製です。 米国は,中国に対してフェンタニルの輸出を規制するよう求めていますが,中国政府はこれを対米外交カードにしています。「規制? そらあんたら次第やわ。 この間,ペロシ下院議長が台湾訪問したやろ? あんなことされたら うちが嫌がるって分かってるやん。 これではフェンタニルは減らんのとちゃうかなぁ。」という具合です。
欧州においては,フェンタニルの犠牲者は米国に比べると圧倒的に少ないものの,着実にその数を増やしており,2022年にはキシラジン併用(ゾンビドラッグ)での死亡も発生しています。 さらに欧州市場のヘロインの主な供給源であるアフガニスタンにおいて,2022年,タリバンがケシの生産を禁止したことで,今後,欧州においてヘロインが品不足になる可能性があり,合成オピオイドであるフェンタニルの生産量が急増することが予測されます。
さて日本では,流石にまだゾンビによる死亡は(私の知る限りは)耳にしません。 しかし,特に若年者が海外から情報や物を入手する機会やツールはどんどん増えており,フェンタニルなどの薬物あるいは今後も出現し続けるであろう新たな薬物は,より身近なものになると予測されます。
獣医師の責任
「オピオイドクライシス」が蔓延する米国の映画やTVドラマで,薬物依存者や製造・販売カルテルが医療従事者を巻き込む場面が多くみられます。 現実社会においても,冒頭に言及したPurdue Pharma社は,オキシコンチンの処方数が多い医師に,重点的に不適切な営業攻勢をかけたようです。 FDAは,獣医師が犯罪行為に巻き込まれたり,果たすべき責任を果たせない事態を防ぐため,webサイトで下記のように注意喚起しています。
The Opioid Epidemic: What Veterinarians Need to Know
獣医師が知っておくべきこと
結論
「ワンちゃんの健康を守るのは私たちの責務です」といつも申し上げるのですが,ドラッグの問題は,オーナーさん自身,ご家族,病院スタッフ,獣医師をも含め,私たちの社会そのものをみんなで守っていくことが求められます。
冒頭,日本の女子高生が命を落とした事件に言及しましたが,今やオーバードーズは,小中学生にも広がっています。 昨日までランドセルを背負っていた子供たちが,今日は薬に手を伸ばしているのです。 昨年の番外編『イヌにドラッグ・・・米国事情』では,そんな子供たちが集まる「トー横」に言及しました。 同様の場所として,大阪では道頓堀のグリコの看板の下「グリ下」,名古屋では栄のドンキホーテ近くの「ドン横」などが知られてきました。 しかし,メディアの記事によると,「ドン横」は再開発のために閉鎖され,「トー横」や「グリ下」も防犯カメラ設置やパトロール強化といった防犯対策により,子供たちの姿は減ったそうです。 実は「トー横」がどこなのかもよく分かっていない私は,当然,行ったことがなく,「グリ下」も,毎正月に道頓堀の「今井」を訪れながらも,すぐ側の戎橋にはこの10年くらい行っておらず,実際に見てはいないのですが,最近は「キッズ」はパラパラ程度だとか。 彼らはもちろん,自宅に帰ったわけではありません。 同記事によると,補導を避けて「分散」したのだそうで,大阪で言えばアメリカ村の三角公園や天王寺,梅田などにばらけ,さらには地方へ,福岡の「警固界隈」(警固公園付近),横浜の「ビブ横」(ビブレの横),広島の「P横」(パルコの横)などに,夜行バスなどを利用して出張?しているそうです。 夜のバス停に座って地方都市行きの夜行便を待っている子どもたちが何を求めているのか,私たちは何をしてあげられるのか,難しいところですが,確かなことは,この世に生まれてまだ10年ちょっとしか生きていない彼らに,薬などに頼らせてはならないということです。
最後に,先日ASPCAが公開した,2023年の米国における犬の中毒事故の品目リストをお示しします。
リストに見られるとおり,前年に続いてレクリエーションドラッグが10位に入っています。 繰り返しになりますが,学校や家庭に薬物が存在する頻度と量が増えると,間違いなくワンちゃんの中毒事故が増えます。 日本が米国に追随しないよう,社会全体で,本気で考えないといけません。
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