茶と角 9
※連載初回の「はじめに」を読んでいただけたら幸いです。ちょっとお断りをしておきます。
お点前をすることになった日、お身内の中にお一人だけ、美香には面識のないお客様がいました。奥様とそれほど年齢が変わらないように見えるご婦人で、その方がお正客になりました。
「若い人のお点前は、やっぱりいいわね。あなた大学生?」とご婦人は美香に聞きました。
「高校生よ。うちのと同い年よ」と孫娘の母親が言いました。
「まぁ、落ち着いてるわね。それに背が高いのね。すてきなお嬢さんね」とご婦人は言いました。ほめられるとは思っていなかったので、美香はお点前に集中しながらも、内心ではびっくりしていました。でもとても嬉しく思いました。
そのご婦人と美香で、ちょうど八人でした。奥様は「最後にご自服して、お菓子もいただきなさい」と美香に言いました。美香はそうさせていただいて、無事にお点前は終わりました。
「今日は急に呼び出してごめんね」と奥様はご婦人に謝っていました。 「謝らないでよ。呼んでくれて嬉しいわ」ご婦人は本当に嬉しそうでした。
「だって、うちの子の代わりだもの。今日は帰りが遅くなる、って言うから」奥様が言いました。
「あら、じゃあ、感謝しなきゃ、お嬢ちゃんに」とご婦人は心優しい返事をしていました。
お茶会を皆で楽しんだ後は、お屋敷内のお座敷に移動して、とても美味しい握り寿司のコース料理をいただきました。奥様は、お屋敷に板前と仲居を呼んでいました。美香は楽しい雰囲気の中を、静かにゆったりと過ごしました。今日はお片付けのお手伝いはありませんでした。お身内の方々と同じように帰らせていただきました。
『今日の集まりも本当は彼女(孫娘のこと)のためだったんだ』と美香は思いました。『私にお点前をさせると、彼女が気楽でいられるからだったんだ』
しかし美香はこの経験で、勇気をもらった気持ちになりました。『私、ちゃんとお稽古が身に付いてた!』そう思うと、美香は嬉しくなり、お茶のお稽古がまた楽しみになりました。
そして七年が経ちました。美香は家から徒歩で通える小さな商社で事務員をしていました。
ある時、美香は奥様にお点前を頼まれて、お屋敷のお茶室へ行きました。すると、七年前に一度お会いしたことのあるご婦人がお正客として招かれていました。その他には誰もいませんでした。三人でのお茶会が始まりました。
ご婦人は美香の点前を見ると、
「やっぱり美香さんがいいわ。お願いしたいんだけど、いいかしら?」と奥様に言いました。すると奥様が美香に言いました。
「あのね、あんたにお点前を頼みたいんですって。この人のお茶室は、うちなんかとは比べ物にならないくらい広くて、そういうところでお点前をさせていただくのはいい経験になるから、させていただきなさい」
「とても嬉しいのですが、私の先生にお伺いしてからお返事をした方がよろしいでしょうか?」美香が聞きました。
「私から言っておくから大丈夫よ」奥様が言いました。
「はい。では、よろしくお願いいたします」美香は頭を下げました。
「ありがとう。良かった。詳しいことは後でね」ご婦人が言いました。美香はお点前を続けました。
「なんかわけがあるんでしょ?」奥様がご婦人に言いました。
「お正客があいつなのよ。だからよ」ご婦人が少し声を抑えて言いました。
「えっ? 誰?」奥様が聞きました。
「『伯爵』よ。あいつが機嫌良く過ごしてくれるようにしたいのよ」
「……あの人元気なの?」奥様が弱々しく言いました。
「元気よ。『わしゃ、婆さんの茶は飲まん。男の茶もいらん。若い娘の茶しか飲まんからな』って言われたのよ」ご婦人はちょっと憤っていました。「だから、色白で細面の若い綺麗な娘さんがいいと思ったのよ。あいつが喜びそうでしょ? ごめんね、美香さん、怖がらなくていいからね。公の場では絵に描いたような紳士だから大丈夫よ。危険なことはないから安心してね。それに『伯爵』はあだ名だから、恐縮しないでね」ご婦人は美香に申し訳なさそうに言いました。
「……あの人まだそんなこと言ってるの?」奥様は少し寂しそうでした。
「あら、あなたも、あいつが言ったの聞いたことあるの?」
「あるわよ」奥様がちょっと怒って言いました。
「自分だって爺さんのくせにさ」ご婦人もちょっと怒って言いました。
「自分が爺さんだって知らないんじゃないの?」奥様がまことしやかに言いました。
「あんなに鏡ばっかり見る人が?」ご婦人がいぶかしげに聞きました。
「鏡に自分の若い頃の写真が貼ってあるんじゃないの?」奥様の頓知が出まました。
二人は大笑しました。お腹の底からの笑いが止まらないようで、しばらく笑い続けていました。次第に美香にまで笑いの影響が及んでお腹が湧き立ち、腕から力が抜けていくのが手に伝わったので、気を付けながらお点前をしました。
(つづく)