茶と角 10
※連載初回の「はじめに」を読んでいただけたら幸いです。ちょっとお断りをしておきます。
お約束の日、美香がご婦人のお屋敷を訪ねると、出入口には門番がいました。門番に名前を告げると、丁寧な挨拶を受けました。そして簡単に敷地内の説明があった後、ようやく中へ通されました。
お茶室は離屋で、本席と立礼席が一つになった造りの二階建てでした。
美香は本席でお点前をさせていただきました。背が高く、立ち姿の美しい老叟がお正客でした。『この方が伯爵……』美香は忙しさを忘れるような気持ちになりました。確かに華やかさと品のある方でした。
お点前が終わると、美香は庭が眺められる八畳ほどの洋室へ案内されました。そこへご婦人が現れ、美香は感謝の言葉と、最高級のアスパラガスの箱詰めをいただきました。
「本当はお金でお礼をしたかったの。だけどあなたの先生から電話があって、お金を渡さないでください、って言われたの。内緒であげたいくらいだけど、あなたに嘘をつかせたくないから、こんなものでごめんね」
「いいえ、こちらこそ、ありがとうございます。貴重な経験をさせていただきました。アスパラガスは大好きなので嬉しいです」
「美香さん、お免状は? どこまでいただいてるの?」
「いただいたことはありません」美香は苦笑いをしました。
「えっ? だってもう長いことお稽古してるでしょう?」
「七年くらいになります」美香は少しだけ声が小さくなりました。
「……多分、あなたの先生のこと、あの人(奥様のこと)、それほどは知らないんじゃないかしら。悪口は言いたくないけど、あんな人を先生として紹介するなんて」
「当時、奥様のお知り合いで、自宅にお茶室がなかったのは私の先生だけだったようで、お嬢さん(孫娘のこと)にお茶を習わせたくて、奥様のお茶室に通ってくれる人が欲しかったんだと思います。私はそのお稽古の仲間として声を掛けていただいたんです。でも、あとで、先生がお茶室として自宅の奥の間を旦那様に改造してもらっていたことがわかったんです」
「そういうことだったのね。……あのね、あなたの先生は、二度、出入り禁止になって、今の流派が三つ目なの」
「えっ、そうなんですか?」美香は驚きましたが、だから奥様と先生(おかみさんのこと)は流派が違うし、奥様のお知り合いに先生と同じ流派の方がいらっしゃらないのかもしれない、と思いました。
「先生を変えてもいいんじゃないかしら? お免状をあげる気持ちはないのよ。あの人(奥様のこと)に遠慮してるのなら、もうすぐお嬢ちゃんが結婚して遠くへ引っ越すそうだから、結婚式が終わってからでもその話をしたらいいんじゃない? これからは、お嬢ちゃんの補助のためじゃなく、あなた自身のためにどうしたらいいのかを考えた方がいいわよ。余計なお世話かもしれないけど、はっきり言っちゃったわ。ごめんね」
「いいえ、ありがたいです」美香はご婦人の言葉にしんみりしました。
「お昼ごはんを食べて帰ってね。ここに運ばせるから。ゆっくりしていってね。帰りは、私に挨拶はしなくていいからね。門番に名前を言ってから帰ってね」
美香はお庭の景色を楽しみながら、一人でゆっくりとフレンチのフルコース料理をいただいて帰りました。
家の最寄り駅の横断歩道で信号待ちをしていると、小学校の時の同級生が声を掛けてきました。
「美香ちゃん、久しぶり!」クラシックバレエを習っていた田代さんでした。
「わぁ、久しぶりだね!」
「着物姿の綺麗な人がいるな、と思ったら、美香ちゃんだったのよ。今日はどこへおでかけだったの?」
「お茶会だったの」
「そうだったんだ。もしかして、もう先生なの?」
「まさか。お免状持ってないんだ」
「習い始めたばかりなの?」
「ううん、もう七年くらい」信号が青になりました。
「えっ? それおかしいよ。私、小学校を卒業してから、バレエをやめて、中学校の三年間だけお茶を習ったんだけど、卒業までに茶通箱もらったよ」
「えっ? 三年でもらえるんだ?」
「私の知ってる人で、二年でもらった人もいるよ。美香ちゃん、おとなしいから。自分から言っていいんだよ、そろそろお免状をいただいてもよろしいですか? って」信号を渡り切りました。
「ありがとう。話、聞いて良かった」
「じゃあ、またどこかでね」
「うん、またね」
お互いに笑顔で別れました。
時刻は日暮れ前でした。美香は歩きながら、茶杓拝見の最初のお稽古の時のことを思い出していました。
『今思うと、あの時、暮れかぬ、って言ったのは良くないことだった。駄洒落になっちゃった。先生(おかみさんのこと)は、私がお金がもらえる仕事をしても、お金を呉れ兼ねるし、一生懸命お稽古しても、お免状を呉れ兼ねるし、思いやりを呉れ兼ぬ気持ちを貫こうとしていらっしゃる。言霊の妙を思い知ることになっちゃった』
美香はそろそろお稽古をやめてもいいかもしれないと思いました。
『一期一会ならぬ一抹一時雨(いちまつひとしぐれ)だったな、私のお茶のお稽古は。人間って、ちょっとずつ影響し合ってる。先生は私の立場で物事を考えることはしないし、私の若さを快く思ってないから、先生の何気無い態度がたびたび私を泣く目に合わせる。先生の道徳的欠陥が精神的にも肉体的にも私に害をなしていることに気付いていないし、これからも気付かないと思える。これも修養だと思って、お稽古に集中してきたけど、これ以上先生の下にいると偽善的道徳家になってしまうかもしれない恐れがある』
(つづく)