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茶と角 4

※連載初回の「はじめに」を読んでいただけたら幸いです。ちょっとお断りをしておきます。


「断ってもいいんじゃない?」と母は言いましたが、このお約束をしたのは自分の責任なので、美香はおかみさんの先生(今後は大先生と表記)との待ち合わせ場所へ行きました。大先生と、お弟子さん三名と美香の、合わせて五名で庭園へ向かいました。
 その途中でお弁当屋さんへ寄りました。美香は売り場から一歩下がったところからお弁当を眺めていました。するとお弟子さんの一人の上川さんが、「好きなものを選んでいいのよ」と美香に優しく言いました。しかし、そうしていいとは美香は思えませんでした。大先生そしてそのお弟子さんたちと、今日初めて庭園のお茶屋で働くのです。自分のお弁当をどれにするかは、大先生とお弟子さんたちが選んだものを見てから決めよう、と思いました。上川さんが気を悪くするといけないので、売り場に近付き、お弁当を選ぶふりをして、ひとつひとつゆっくりと見ていました。すると、お弟子さんの一人の中川さんが、
「先生、全員、このお弁当にしましょうよ」と大先生に言いました。
「いいわね、そうしましょう」と大先生は言って、他の三人にそのお弁当でいいかを聞かずに五人分買いました。美香がお財布を取り出すと、大先生は
「いいのよ、今日は私が持つお席だから、あなたのも払わせてね」と言いました。美香は、ありがとうございます、とお礼を言いました。
 大先生がお席を持たれる時は皆にお昼をごちそうしてくださることを、おかみさんが把握していないことがわかりました。
 上川さんの言ったことを真に受けたとしたら、お弁当選びに時間を取って迷惑を掛けてはいけないと思って、早急にお弁当を手に取って、私はこのお弁当にします、と言ったり、お先に買わせていただきます、と言って、お弁当をさっさと買ってしまったり、というようなことをしてしまうこともあるかもしれない。そんなことをしたら、角を立ててしまう。今日のお手伝いはいつもに況して細心の注意を『払わないといけない』、お弁当代は『払わないといけない』ことはなかったけど、と美香は最後にちょっとだけ自分の中での戯口(おどけぐち)を利いて、今日の人付き合いの難しさにとらわれないように自分の気持ちを落ち着かせました。
 大先生とお弟子さんたちは、道行きに年金の話をしていました。

 時間通りにお茶屋の準備は整いましたが、お客様はなかなか現れませんでした。すると大先生が、「今のうちに売店を見てもいいわよ」と美香にだけ言いました。売店はお茶屋と同じ建物の中にあり、入口のすぐそばで、お茶屋は一番奥にありました。美香は不思議に思いながらも、素直に応じて、売店へ向かいました。するとお弟子さんの一人の下川さんの、
「あの子、着物の着方がおかしくない?」と言う声が聞こえました。
「私達と違って脚が長いのよ。だから帯の位置が高いのよ」上川さんの声でした。
「ああ、そうね」と下川さんが言って、二人で笑っている声が聞こえました。美香は、気にしない気にしない、と思いながら売店へ行きました。
 すると、年配の女性二人が、美香に近寄り、声を掛けました。
「今日はお茶席があるんですか?」
「はい、ご案内いたします」と美香が言うと、
「場所はわかります。売店を見てからにしますので。すみません、ありがとうございます」という返事でした。
 美香はお茶屋に戻り、
「しばらくしたら、二名様がいらっしゃいます」と言いました。すると大先生が、
「まぁ、早い。何があるのか、全然見られなかったでしょう? これからだんだんとお客様が増えてくると思うから、お客様の往来が一段落したら、また見に行っていいわよ」と言いました。
 着物姿が客寄せになるんだ、なるほど、と美香は大先生の意図をようやく理解しました。
 しばらくすると、先程の女性二人が、嬉しそうな様子でお茶屋に入って来ました。そして、
「お点前を拝見したいんですけど、よろしいですか?」と聞きました。
「ええ、どうぞ。一番前のお席でお待ちください」と大先生が言い、自らお点前を始めました。
『そういえば、奥様のお点前を拝見したことがないけど、どうしてかな?』と美香は思いました。

(つづく)


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