【過去記事】若きろう者リーダーに聞いた ラオスのろう者たちの今
※本稿は、2016年6月に『ザイ・オンライン×橘玲 海外投資の歩き方サイト』に執筆した内容を、掲載元の許諾を得て掲載しています。
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これまでラオスに15年間暮らしていたが、日常接することがなく、また、恥ずかしながら、そのこと自体を疑問に思うこともなかった。ラオスの聾(ろう)の人々の存在である。
先日、日本の某大学教授から連絡が舞い込んだ。「研修で来日しているラオス人のろう者が登壇する際に、せっかくの機会なのでラオスをPRしたいと思う。その素材を探している」とのことだった。
前回、このコラムでも紹介した、日本ラオス映画「サーイ・ナームライ」の予告編を見て連絡をいただいたのだが、「ラオスのろう者と出会ったことがなかった」ことを僕自身が気付かされた。15年もラオスにいたのに。
ラオスでの障害者全般に対する世間の目というのは、柔らかく優しい、イメージがある。
従来ラオスの人々が持つ寛容さは、多様性を許容できる社会を作り上げているように思え、性同一障害やダウン症の人々をラオス社会は上手に受け止めている。その根底には、挨拶ができる、読み書きができる、人前で堂々と意見がいえるなど、日本などで一般的に求められる「人として最低これだけのことをできなければならない(こうでなければならない)」ということがラオス社会ではあまり求めらないからかもしれない。
人の子として生まれてきたのだから、それでいいのだ、ということなのかもしれないし、ラオス語にある“ボーペンニャン”(なんとかなるさ)の包容性なのかもしれない。ただそれは、時と場合によって、良し悪しの両面性を含んでいるといえるのだが。
ラオスろう協会の若きリーダー
スピーチでお会いしたのはタタさん(25歳)。2歳の時に失聴し、小学1年まで地域の学校に通うが、コミュニケーションが取れなかったため、ろう学校に転校。そこで手話を習得した。首都ビエンチャン中心部から少し離れた実家に両親、弟2人と5人家族で暮らす。その中で耳が聞こえないのはタタさんだけだ。
現在はラオスろう協会の副会長を務める。ろう学校を卒業後、1年間タイの障害者職業訓練校に通った。その後、ろう学校で小学部1年生に手話を指導、2010年からろうクラブ副会長、13年にろう協会に格上げされてからも、引き続き副会長を拝命することになった。
格上げされた「ろう協会」ではあったが、恒常的な予算不足に悩んでいる。国からの財政的な支援がほとんどないのだという。クラブ時代にスウェーデンのNGOから10年間の支援を受け活動費としてきたが、それが満了となり、現在は大きな活動を休止中の状況にある。
協会が抱えている課題として、予算不足のため、活動の継続性・持続性のなさと、手話通訳者の数が足りないことを、タタさんは挙げた。
また、もうひとつの問題として、手話のできないろう者がまだ多いということがあるという。それはろう者を家に引きこもらせてしまう。田舎では、家族一人がろう者の場合、家族内で会話ができないため、ろう者だけが孤立する状況を生んでしまう。
そんな田舎のろう者たちだが、ろう協会、ろう学校のある都市(首都ビエンチャン、ルアンパバーン、サワンナケート)に出れば、ろう者のコミュニティーの中に入り、手話を覚えることもできるし、仲間が作れる。こうした人々を救済することが、何よりも優先しなければならない活動だという。
そしてさらには、手話通訳者が全国で3人しかいないということ(現在、協会職員として1人、ろう学校に1人、フリーが1人という状況)。これはろう者の情報保障(身体的なハンディキャップにより情報を収集することができない者に対し代替手段を用いて情報を提供し、人間の「知る権利」を保障するもの)や健常者がマジョリティーのラオス社会に対しての訴求活動の足枷になっている。
ラオスのろうの人たちの暮らしは?
障害者の中には戦争で受障した人たちが多く含まれ(四肢障害または視覚障害を負った人が多い)、彼らは政府から手厚く補償を受けることができるのだという。インドシナ戦争時に国家に貢献したためということになるのか。
それ以外の先天性ろう者の多くは職を持たず家族の支えで生活している場合が多いのだという。しかし、最近では、タイ人が経営するヨーグルト工場や、ラオス人経営の有名レストランで皿洗いの職に就くことができるようになった。
これらのケースは、経営者の理解がまず先にある。不自由な人々に救済の手を差し伸べる理解力。ちなみにラオスには障害者を雇用した場合の政府による法令上の優遇措置(減税など)がない。そして、ヨーグルト工場の経営者いわく「おしゃべりをしないから、健常者よりも良く働くし、頭も良い人が多い」のだという。ラオス障害者協会には職業斡旋の部署もあり、このような企業が今後、増えていくことを願うばかりだ。
さて、初来日で2016年6月までの10カ月間滞在したタタさんが日本で学んだことを聞かせてもらった。
「日本のろう協会の組織運営に感銘を受けた。手話を教える部、青年部、高齢部など組織がしっかりと編成されており、リーダーシップ、リーダーは緻密でなければならないということを学ばせてもらった。また、ろう者同士でお金を出し合って(集めて)施設を建てたり、ということに感銘を受けたが、ラオスの場合は、そもそも、ろう者が仕事をもっていない現状なので難しい」。
「帰国後は、まずはろう者を集めて、日本で学んだ知識や経験を共有し会員たちを組織立てていく。またろう者に対しての指導、手話通訳養成も学んだが、地方で教えようと思うと費用が嵩むので、行政と交渉して予算をとって活動する必要がある。日本のろう者はとても力強い活動をされていてラオスとの違いを強く感じた。日本で研修できたのはとても良かった」。
日本ろう協会の歴史は約70年。比べて、ラオスはたったの3年である。「50年経てば日本と同じようなことができるのかも」とタタさん。
夢は「ろう協会の仕事を続け、ろう者を支援すること、聞こえない人が健常者に追いつく手助けをし、その人たちと肩を並べてともに活動をしていきたい、そして健常者とろう者が平等に生きられる、就職・労働の面でも平等な社会を実現していきたい」と、若きラオスのろう者のリーダーは目を輝かせた。