【過去記事】「歴史上、人口1人当たりの爆撃が最も”重い国”」。都市部経済成長の裏で、ラオスが抱える不発弾の苦悩
※本稿は、2012年11月に『ザイ・オンライン×橘玲 海外投資の歩き方サイト』に執筆した内容を、掲載元の許諾を得て掲載しています。
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不発弾の影響
不発弾除去活動を行う組織(UXO LAO)が発表している10の事実がある。
1.ラオスは、歴史上、人口1人当たりの爆撃が最も重い国である。
2. ラオス国内の村落の25%が不発弾による被害地域だと予測されている。
3. 第二次インドシナ戦争では58万回以上の爆撃ミッションが遂行された。
4. 1964年から73年(第二次インドシナ戦争)の間に200万トンもの兵器が投与(9年間、24時間中、毎8分の計算になる)され、その3割以上が不発弾となった。
5. 戦後も約8000万個の不発弾がラオスに残された。
6. ラオスの全17県が、不発弾により苦しめられている。
7. 46の貧困地区の内、41地区が不発弾により汚染されている。
8. 1964年から2008年の間、不発弾により5万人以上の人々の命が失われた。
9. 1974年から2008年の間、不発弾により2万人以上の人々の命が失われた。
10. 不発弾除去プロジェクトは、その活動に対し、650万ドルと1000人以上の雇用を必要としている。
ラオスには多くの不発弾が残されている。都市部に長く暮らすと、ラオスが戦場であったことなど、実体験のない者にとっては、過去の遺物でしかない。都市部の人々は好景気の喜びを素直に享受しているが、一歩離れると、戦争の深い傷跡が未だ残る。
東北部シェンクアンの人口は、約28万人(2011年)。同県の観光名所である謎の石壷群「ジャール平原」はユネスコに世界遺産登録申請中で、また、温泉源があり、ゴルフ場に適したなだらかな丘陵が広がる。雨期には松茸が採れることでも有名だ。これらの要素だけを並べると観光地としてのポテンシャルは高い。しかし、同地はベトナム戦争(第二次インドシナ戦争)時代に激しい爆撃を受けた地域だった。
現在、世界中で禁止の動きが高まっているクラスター爆弾がその試験場として使用されたのがラオスであった。多同兵器は、不発弾となる可能性が高く、兵士への致死率が低い。負傷者の発生による介護の為、戦力が削がれる。この悪質な兵器が、未だラオスの農村部の開発を妨げている。
不発弾に狂わされた人生
地元英字紙に掲載された2人の被害者の話である。
■ラッサミー(19歳/男性)
若さ故の無知が自身の人生を粉々に砕いたと、彼は語った。14歳の頃、経済的に困難な立場にあった彼は、友人たちと一緒に不発弾を掘り起こして得られる鉄くずを売って、生計を立てていた。ショベルを使い、地表から現れたボンビー(クラスター爆弾)を掘り上げた時、彼の人生の全てが変わった。泥を落とす為に軽く叩いた時、爆弾が突然爆発した。彼は、想像を絶する痛みとともに地面に倒れ込んだ。
彼に残されたのは、片腕と2本の指、片目だった。彼が好きだったセパタクローも、もう出来なくなった。自殺することも考えるようになった。彼が負傷したことで、家族は2100万キープ(約2500米ドル)もの医療費を支払わなければならなった。
■ブンクート(17歳/女性)
彼女と姉の二姉妹は庭で料理をしながら、見つけたボンビー(クラスター爆弾)で遊んでいた。そして、爆発は、突然起った。妹は即死だった。姉は、生き存えたが片腕を失った。母親は、医者が腕を切断しようとするのを拒んだ。それ以来、彼女は学校に行かなくなった。
以前の彼女は、ラオス舞踊を踊るのが好きだった。友達たちが恋人と楽しくでかけるのを見るにつれ、心が痛んだ。幸い、彼女は家事手伝い程度の作業ができる。より良い教育を受けてよりよい生活ができるよう夢見ている。