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私たちは”本当に”食べるものでできている

私たちはなぜ食べるか?

まるで車にいれるエンジンのように食べ物を消化して代謝や運動に使われ動いているのだろうか?
食べた物は燃やされて二酸化炭素と水となり体からでていくのだろうか?

答えはNOである。

私たちの体はミクロでみると炭素、窒素、水素といった粒子出てきている。
そして、食べるものもミクロで見ると同じ粒子でできている。

実は1930年代に面白い実験をしたシェーンハイマーという化学者がいる。
この一連の流れを確かめるため、食べものの粒子にだけマーカーをつけたのだ。

先ほど述べたエンジンのような役割だとすると、この食べ物のマーカーをつけた粒子はそのまま排出されていくはずである。

ところが、この粒子のいくつかは排出されず体内に留まっていたのである。ではその粒子の分体重が増えたのではないか?と思うだろう。
しかし、実際は体重の増減はなかった。
つまり、もともと持っていた体内の粒子のいくつかが排出され、食べ物の粒子と置き換わったということになる。

これは実はとっても凄い発見で、自分の粒子と思ってたものは実は全然自分の粒子ではなかったということになる。

どんどんどんどん粒子が入れ替わっているから、昨日の私と今日の私は物質的に違うもので構成されているのである。そして1年後の私は1年前の私と全く違う粒子で構成されているということになる。

文字通り、本当に食べたもの(だけではないけど)で構成されるということだ。

「私」というものは実は全く固定されていることなく、不安定なたまたまその時そこに留まっていた粒子の塊にすぎないのである。そして絶え間なく入れかわり続けているのである。

では抜け出ていった粒子はどうなるか?
というと、また別の生命体に受け渡されるのである。あるいは生命ではなく海や川、岩や土に受け渡されているかもしれない。

「循環」や「共生」は単に食物連鎖という目に見える話のことだけではない。

そして粒子レベルのやり取りというミクロな話だけでもない。

環境全体でみても、細胞レベルで見ても、絶え間なくやり取りは続いているし、そうしてバランスをとって各々の環境があり、生命がある。生命は常にエントロピー(乱雑さ)が増加する方向に動くのだ。

そう思うと、やはりその流れを止めるような薬の使用は控えたいし、口に入れる事のできないようなものを川に流したくない。(しかし人間はこの循環の流れを止めたがる。共有ではなく占有したがる。)

実をいうと、私はいつも地球環境のためなんて大きなことを考えてはいない。
自分勝手で我がままだ。
生命ってそうだと思う。

しかし、本当に真剣に我がままに自分のことを考えると、本当に自分に良いことは環境にもいいことなのだと思う

だって昨日の私が出した粒子が、別の生命になり、土になり、またその粒子が私の体を構成するのだから。

という事で、またきちんと記事にしたいと思っているけれど、そんな粒子のスムーズなやり取りが続けれるように自然のバナナを頂く877(バナナ)プロジェクトスタートしました。こちらにリンクを貼っておくので興味があったら是非見てみてください。

(今日はプロジェクトの記事を書こうとしたのだけれど、表面的な話にどうしてもなってしまうのでもう少し根本的な考え方を書いておきたいと思い、とっても優しく書かれている福岡さんの動的平衡の話の触りを書かせてもらいました。)

最後にこのような話は福岡さんの「動的平衡」を読んでなるほどと納得させれられた。
以下、動的平衡の著者コメントを引用する。興味があったらとっても面白い本なので是非読んでみてほしい。


・・・・・

生命現象の核心を解くキーワード、それは<動的平衡> (dynamic equilibrium ダイナミック・イクイリブリアム)。

私たちは、自分は自分だ、自分の身体は自分のものだ、という風に、確固たる自己の存在を信じているけれど、それは実は、思うほど確実なものではない。私たちの身体は、タンパク質、炭水化物、脂質、核酸などの分子で構成されている。しかし、それら分子はそこにずっととどまっているのでもなければ、固定されたものでもない。分子は絶え間なく動いている。間断なく分解と合成を繰り返している。休みなく出入りしている。実体としての物質はそこにはない。一年前の私と今日の私は分子的にいうと全くの別物である。そして現在もなお入れ替わり続けている。

つまり、私たちの身体は分子の「淀み」でしかない。それも、ほんの一瞬の。私たちの生命は、分子の流れの中にこそある。とまることなく流れつつ、あやういバランスの上にある。それが生命であり、そのあり方を言い表す言葉が、本書のタイトル、<動的平衡>である。本書は、最初から最後まで、<動的平衡>とは一体何なのか、どのように成り立ち、いかにふるまうかを考えた本である。

爪や皮膚、髪の毛であれば、絶えず置き換わっていることが実感できる。しかし私たちの全身の細胞のそのすべてで置き換わりが起きている。固い骨や歯のような部位でもその内部は動的平衡状態である。お腹の回りの脂肪も、たえず運び出され、たえず蓄えられている。分裂しないはずの脳細胞でもその中身やDNAは作り替えられる。

なぜそれほどまでに、あえどのない自転車操業のような営みを繰り返さねばならないのか。それは、絶え間なく壊すことしか、損なわれないようにする方法がないからである。生命は、そのようなありかたとふるまいかたを選びとった。それが動的平衡である。

生命は、必死に自転車をこいでいる。追手から逃れるために。追手は生命をとらえて、その秩序を壊そうとたくらむ。温かな血潮を冷まそうとする。循環を止めようとする。追手の名は、エントロピー増大の法則。輝けるものはいつか錆び、支柱や梁はいずれ朽ち果てる。いかなる情熱もやがては消え、整理整頓された机の上もすぐに本や書類が積みあがる。乱雑さ(エントロピー)が増える方向に時間は流れ、時間の流れは乱雑さが増える方向に進む。生命も、この宇宙の大原則から免れることはできない。しかし、エントロピー増大の法則に先回りして自らをあえて壊し、そして作り変えるという自転車操業を続ける限りにおいて、生物はその生命を維持することができる。私たちの身体において、たゆまず、けなげに自転車をこぎつづけているもの、それが動的平衡である。


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