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〔読みました〕本に読まれて - 須賀敦子
イタリア語の翻訳家、講師として過ごしていたこの人が彼女自身の言葉で物語を紡ぎ始めたのは55歳のとき--そんな一文をあるところで読んで興味が湧いて、初めてふれたみた須賀敦子の世界。
最近この人の本を読み漁っています。知らずに過ごしていた時間を埋めたくて焦っているのかもしれません。もっと早く知っていたら私の生き方が変わっていたかもしれない(いい方にとか悪い方にとか、そういう合理的な期待ではなく、ただ、もっと違う世界の見方をする人になっていたかも、という予感)--大袈裟でなく本当にそう思うのです。
よく、田舎の美しい町や村で育って外に出たことのない人が思いのほかその人の故郷の美しさや豊かさに気づいていなかったり無頓着であったりするのを知ることがあります。
須賀敦子の文章に触れて、私は、イタリア語やフランス語、英語を使う人になって外側から見ることをしてきたから、この人はこんなに日本語の美しさを知っているのだろうかと思いました。丁寧なのに軽やかさがあり、批評にもおとなの気配りがあり、とにかく美しいのです。
この本は、古典あり、小説あり、詩集あり、美術書とジャンルフリーで須賀敦子がピックアップした本をめぐるエッセイを集めたものです。
まず、目次を見て、私が知っている名前はマルグリット・デュラス、アガサ・クリスティ、川端康成の三つだけでした。ところが須賀マジックに連れ去られて、私はこの本に登場する本の悉くに興味が湧いてしまって、どれもこれも読んでみたくてたまらなくなりました。
すでにもう私は、この本で紹介されているクシシトフ・ボミアン『ヨーロッパとは何か』、松山巖『100年の棲家』、池澤夏樹『スティルライフ』、山崎佳代子『そこから青い闇がささやき』を、古書、電子書籍含めて入手してしまいました。なので、これらの本が果たしてほんとうに面白いのか、それとも須賀敦子のエッセイが素敵すぎて幻を見たのかを、これから1冊ずつに向き合って確かめていこうと思っています。
一つ興味深かったのは、松山巖と須賀敦子の関係です。
建築家、評論家としても知られる作家の松山巖は、友人である須賀敦子を追想する著書『須賀敦子の方へ』でこう書いています。
私はこれから須賀敦子のことを辿ろうと思う。彼女のことはなにかの折に、フト思い出す。雨もよいという一つの言葉でも、鉢植えのシクラメンでも、小樽という地名でも、それぞれが彼女の思い出と結びつき、連鎖してゆく。
自分が死んだ後に友だちがこんなことを書いてくれたらどんなに素敵だろう…なんて、私は子どもじみた嫉妬を感じ、そしてすぐに、須賀敦子と友達になったらきっとみんなできるだけ美しい言葉を選んで選びぬいて、素敵な思い出を書かずにいられなくなるのだろうと納得しました。