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多様性時代の個人と国家と教育と。そして、愛国心。

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このマガジンは、僕(ジーコ)が、子の道、個の道、この未知といった様々な『コノミチ』について述べていくマガジンです。

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前回は『多様な選択肢を見せるだけでは、むしろ不幸になる。』というお話でした。


今回は『多様性時代の個人と国家と教育と。そして、愛国心。』というお話。

愛国心については後から述べるとして、
まずは『個人と国家と教育と』について話していこうと思う。

個人と国家と教育と。

国家は僕たち個人の集まりによって作られている。
そして、教育は僕たち個人を作り、その教育内容は国家によって決められている。

極端に言ってしまえば、
『個人が国家を作り、国家が教育を作り、教育が個人を作る』
というわけだ。

この3つはニワトリとタマゴの関係のよう関わりあっていて、三位一体の関係で循環している。

そのため、どれかが悪くなれば、悪循環が生まれ、全て悪くなる。
そして、一度始まった悪循環はちょっとやそっとで止めることはできない。

もし、今の教育が崩壊寸前だとするのならば、これまでの悪循環の積み重ねでそうなっているのだろう。

しかし、今、そんな悪循環の流れが大きく変わろうとしていることにお気づきだろうか?

そう、教育の多様化によって個人、国家、教育の関係性が変わろうとしている。

これまでは、学校教育を受けるのが絶対だった。そして、学校に行けば国家が決めた学習指導要領の通りに授業を受けることになる。そして、それに応じて個人の知識の蓄積と人格形成が行われる。
もちろん、教育通りに個人の人格が形成されるわけではないが、少なくとも学校教育によって培われた偏見の塊である常識が構築されるというのは間違えないと言えるだろう。

しかし、これからはこの常識の構築が教育の多様化によって大きく変化するかもしれないのだ。

2016年に成立した『教育機会確保法』によって、不登校児の学校復帰を大前提としていた従来の不登校対策を転換し、学校外での「多様で適切な学習活動」の重要性を指摘したのだ。
つまり、学校は絶対に行かなきゃいけないものではないと明言されたのだ。

これによって、今後、子どもたちの学び場がフリースクールなど選択肢が広がる。
こうなると、国家が今までのように大きく教育に介入できなくなる。

国家が介入していない多様な教育は多様な人材(個人)を作る。
そして、その多様な個々人が集まった国家が形成されるようになるのだ。

どうだろう?変化の流れを感じないだろうか?


さて、では、ここで今回の題の『多様性時代の個人と国家と教育と。そして、愛国心。』の『愛国心』の部分に触れていこうと思う。

そして、愛国心。

さて2018年度から小学校では道徳の教科化が開始したわけだが、この教科道徳の内容の中には「国や郷土を愛する態度」つまり、『愛国心』という項目がある。

道徳の教科化とは、要するに個人の「国や郷土を愛する態度(愛国心)」が評価されるということだ。

これはまさに、国家が教育を使って、個人が愛国心を持つようにしようとしているように見えてしまう…。

もちろん、ぼくは愛国心自体を否定するつもりはない。
むしろぼく自身、日本という国を愛している。

ぼくが問題視しているのは「愛国心とは誰が教えないと育まれないものなのだろうか?」ということだ

愛国心は、その国に対して感謝の気持ちがあれば、自然に芽生えるものだとぼくは思っている。

盲目的に『日本は素晴らしい!』というのは、愛国心ではなくただの洗脳だと思う。

ぼくはこれまでに色々な国を見てきて、改めて日本は本当にスゴイ国だと思った。それは紛れもない事実だ。
しかし、それと同時に、日本の良くない部分も多く見えるようになった。

ぼくは日本という国を愛している。
だからこそ、もっと日本という国を良くしたい。
だからこそ、もっと子どもたちが笑っていられる国にしたい。
だからこそ、もっと将来に希望を持てる国にしたい。
だからこそ、もっと多様性に寛大な国にしたい。

それがぼくの日本に対する愛国心だ。

右だの左だのそんなの関係なく日本が良い国なって欲しいと願っている。

だからこそ、ぼくは教育の多様化に希望を持っているのだ。
無理矢理に愛国心を教えなくとも、教育の多様化が進み、色々な場所で楽しく学べるようになったなら、そんな国に感謝し、愛国心は自然に芽生えると思う。

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