1「曲がるかどには…福来る」
曲がり角には予感がつきまとう。
食パンを加えながら走る美しい黒髪乙女とぶつかり、恋が始まる予感とか。
他にも猛スピードで走るトラックとはちあわせ、走馬灯がよぎる死の予感とか。これはなんだか起きそうである。
知らない街の大通りから路地へと曲がり角を曲がる時の、高揚感と緊張感が混じったあの予感とか。曲がり角は時に恐ろしくもある。
平凡で退屈な自分の人生に何か変化が起きるかもしれない、という予感。
曲がり角の数だけ世界線が存在し、どの曲がり角を曲がるかという選択の連続が人生である。
とすると、曲がり角を曲がることはある意味命がけの賭けである。人生が良い方向へと進むか否か。
そう、おおげさである。たかが曲がり角だ。実際は何も変わらないことがほとんどである。
変わり映えのない日常は続くし、そもそも無意識のうちに無数の曲がり角を曲がっており、何も起きてはいないのだ。
というか黒髪ショート猫系乙女とぶつかるなんてありえない。一切ない。くそっ
大学と家の通学路には20個くらいの十字路があり、毎日自転車で通過するたびに数回自動車とはちあわせるが、ぶつかることはない。
第一曲がり角を曲がるたびに、何かしらのイベントに巻き込まれ、自分の人生が大きく変化していくというのは困る話である。それでは生活はままならない。
曲がり角で、目があったからといって毎回短パン小僧にポケモン勝負を挑まれるなんてのも腹立たしさの極みである。
ただ私たちの人生から変化や偶然性を排除することはできないことは事実である。むしろ、それらの要素が人生のほとんどを覆っている。
何百万もの倍率をくぐりぬけてこの世に生を授かったことも、両親や兄弟、友人がその人であることも、今の私の記憶にある思い出も、変わり映えのない日常などもすべては偶然の産物である。
そこでこう考えてみてはどうだろう。
人生は曲がり角の連続だ。
常に選択を迫られ、そのたびに偶然性に身を晒している。
曲がり角の先には程度の差はあれ、私たちを巻き込む出来事が待っている。
世界はそこからまた動き出す。
だからこそ、私たちはさまざまなモノと出逢い、そのたびに心が動く。山あり谷ありの人生となる。
だからこそ、曲がり角の先で出会う人々や待ち構える出来事、広がる景色はこの人生で一回だけのかけがえのないものである。
どうだろう。このように思うとなんだか少し世界が新鮮に見えてくる気がする。力も湧いてくる。
今ある日常の希有さを実感する。そのあり難さに。
だから私は曲がり角を楽しんでみたい。
予感を感じながら、普段は曲がらない角をあえて曲がってみる。
曲がり角を意識することで、無意識のうちに見逃していたあり難さに「ありがとう」と思える。
こうした自戒をこめて、この場に日常の偶然を、一回きりの出来事を書き留めていきたい。
まずはコメダ珈琲を出て、帰路とは反対の右に曲がってみる。
曲がり角の先に、きっと笑う門もあるのだろう。
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