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心の残像を、ほいっと。

私の一番好きなアーティストである星野源のエッセイ『いのちの車窓から』を読んだ。さすが音楽家なだけあり、言葉の選び方や言い回し、例えがどれも上手だなと思った。私もこんな感じで思いを言葉にできたらなぁという羨ましさ、嫉妬、そして私には才能がないという現実が押し寄せてきた。

しかし星野源自身も文章力には自信が無かったという。だからこそ仕事にし、書かざるを得ない環境を作ったという。

私も真似をしてみる。はじめの一歩としてここに私の想いをなんとか言葉にしてみる。

”想い”というと、おぼろげにも輪郭があり、少なくとも心のなかのフックに引っ掛かりStayしているようなイメージを抱くのだが、私の”想い”とは、ある瞬間には触れることができる確固たるものの、すぐに質や強さが変わり、在ったのか無かったのか分からない、それゆえに気味悪く愛されキャラにはなりえない、つぎはぎだらけの、フランケンシュタインのようなものである。

さぁさぁ、私の愛すべきフランケンよ。ここは怖い場所じゃないから、出ておいで。

私は”生きづらい”タイプの人間なのかもしれない。

世の中には、世界を我が物顔で闊歩し、自分の存在意義を疑うことなく、時に悩んだり挫折したりしながらも、家族や友達と共に乗り越え、基本的には楽しく過ごす人がいる。当然彼らは人に優しく、動物も好きで、世界で起きる悲しい出来事に対し、涙も流す。

この世界の”真ん中”にいる存在である。

一方、そのような存在に対し斜に構え、ルサンチマン的思考に陥り、常識や世間、大衆、人間というものを嫌う人がいる。周囲の人に逆張りをすることで何とか”自分”を保とうとする。彼らは自分の居心地の良い場所を見つけることに長けている。自分が心の底から楽しいと思える、没頭できる、苦しいときに寄りかかれる人やモノだけで溢れた場所。それは、彼らの人生のなかで、生き延びるために編み出された自己防衛方法でもある。

世界の”端っこ”もしくは”別世界の真ん中””にいる存在である。

星野源は後者の世界から前者の世界へと続く道を造り上げた先駆者である、と勝手に思っている。

ただ今の私はどちらの存在でもない、気がしている。
そもそもこれを読んでくれているあなたを含む多くの人はどちらでもない存在なのではないだろうか。

私のことを詳しく書くなら、大学4年生にもかかわらず就活をしていない。これまで大学院進学のために勉強をしていたからだ。ただ試験直前になり、大学院進学の意思がぶれる。

少し時間を遡ろう。

幼少期から、私は平均的な人間であった。勉強も運動も人並以上には出来ていた。顔立ちも悪くはないという自負はある。

相手が何を考えているのかが、どちらかというと分かるほうなので、人間関係のトラブルも経験していない。どんなタイプの人間ともそこそこには仲良くできていた。挫折や絶望といった類のものとは、あまりな馴染みが無かった。かといって別にすべてが完璧にいっていたわけではない。

けれど、今思えば”満たされ無さ”をずっと感じていたのかもしれない。

京都の大学に入学した。当時、それまでのあたりさわりない、くせのない、無個性な自分にコンプレックスを抱いている自分がいることに気づいた。

特別な人間に憧れた。

表面的な逆張りをしてみたり、本で培った強い思想を武器に振舞ったり、初めてできた彼女に対し傷つけるようなことも言った。

自分のアイデンティティを求め、服装にこだわりを持とうとしたり、好きな音楽アーティストのグッズや映画のポスターを部屋に飾ったり、それでもなかなか没頭できることが見つからないと、”没頭できるものが何もない”ことを一種のアイデンティティとする始末であった。

次第にアイデンティティなんてくそくらえだと思うようになった。
自我が強いことに良いことなんてない、と思った。

その考えの延長に、宮沢賢治がいた。彼は自分という存在に対する羞恥心と自分という存在がこの世界にばらばらに散ってしまえばいいという欲望を抱いていた。

賢治のように自我をかなぐり捨てるために、親和性のあった文化人類学という学問を使おうと考えた。世界各地の狩猟採集民や遊牧民の文化を主に研究してきたこの学問は、この世界とは別様の世界を見せてくれる。ある狩猟採集民社会では、自己や人格という概念は、はかないものである。すぐに他者の視点と入れ替わる代替可能なものであり、統合された自己や人格がゆえの自己責任という概念もソフトである。

だから、大学院に進学し本格的に文化人類学をやってみたいと思った。

しかし今になり、早く社会に出て仕事をし誰かの役に立ちたいという欲が出てきた。頭で考えるよりも、何か行動をしたいと思った。かといって具体的にどんな行動をするか決まっているわけではない。

こんな私は一体何者なんだろうか。

一貫した言動があるわけでもない、強い意志があるわけでもない、極めたいと思うほど好きな事があるわけでもない、かといって盲目的に就職することもできない。

怠惰な人という一言に尽きるのかもしれない。

もし他にもずっとぐずぐずして、思い悩み、気変わりしては、星野源のエッセイを読み、勇気づけられるもさらなる孤独を感じる人がいるなら、私は少しは深く眠れる気がする。







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