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ジャムおじさん再考

私たちは日々、変化している。

髪の毛や爪は伸び続けるし、肌の皮質や角質は剥がれ落ち続けている。筋肉や脂肪はついたり減ったりするし、骨も伸びたり縮んだりもしている。

好きな音楽や本のジャンル、作者、好きの程度も変わるし、恋人ができたり別れたりもする。感情や思考もずっと同じなんてことはない。

数年ぶりにあった地元の友達との関係性も変わるし、家族、友達によって性格や話し方も変わっている。目の前にいる相手やもの、環境によって私たちの内面は変わる。

だから、現代において求められる首尾一貫したぶれることのない「自己同一性」そしてそれを「個性」という固定的なものとして捉える社会は、何かおかしいだろう。

私たちは日々、変化している。

しかし、当たり前だが、ある程度は昨日の自分と今日の自分は同じだとも思っている。寝て明日の朝、目が覚めたときに、自分ではないかもしれないと不安を感じる人は少ないだろう。目が覚めても自分は自分なのだ。

その根拠はなんだろう。家に鏡が無い人はすくないだろう。鏡に映る自分の顔が、昨日鏡に映った自分の顔と同じこと。これは大きな根拠ではないか。

逆に、鏡に映る顔が、昨日の顔と全く違ったら、私たちは自分は別人になってしまったように思うだろう。

顔の同一性。部位を細かく見れば、二重が奥二重になったり、腫物ができたり、髭が伸びたりと変化はある。しかし、顔として見るなら同一性は保たれる。ここに、私たちは自己の同一性の根拠を置くのだ。

私は私の顔を直接見ることはできない。鏡や写真を通してしか、自分の顔をみることはできない。直接見ることができるのは、自分以外の他者である。他者は私の内面を覗くことはできず、その変化に気づくことも容易ではない。したがって他者にとって、私が変化しているものの、以前の私であると認識できるのは、顔が同じだからである。

前置きが長くなった。私が言いたいことはただ一つである。

ジャムおじさんの手腕半端ない

顔が欠けたり、濡れたとき、彼は力を出すことができない。ピンチである。そんな時はいつも、ジャムおじさんが新しい顔を作り、入れ替える。

その際、もしジャムおじさんが材料や工程を間違え、いつものアンパンマンの顔とはかけ離れたものができたとしたら、、、

アンパンマンはアンパンマンでは無くなる。顔が違うということは声も変わる。顔も声も変わったアンパンマンは、先ほどのアンパンマンとは別人だ。子どもたちは泣いて一斉に逃げ出すだろう。バイキンマンも混乱するに違いない。

アンパンマンがアンパンマンであるために、つまりその同一性を保つためにジャムおじさんは精密な技術を求められる。再現性が最も求められるのだ。

その再現性があるからこそ、顔を入れ替えるという代替可能性が成り立つ。

アンパンマンという、固有のかけがえのない存在、皆から愛される存在の裏にはジャムおじさんの職人技がある。彼の妙技によって生じる代替可能性があるからこそ、アンパンマンのかけがえのなさは保たれる。

私たちは、何にも代えがたい固有の存在として他者から接されることを望む。

ただそこには少し、息苦しさも感じる。「自分らしくあること」に息苦しさがつきまとうように。

アンパンマンにおいては、代替可能性という要素が含まれる。かけがえのなさと代替可能性の関係性について、次回は書こうと思う。

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