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外国語の解放感
外国語を学び、話すのは単純に楽しい。喜びだ。そこには、大きな解放感がある。
僕は、英語を話している時の方が、率直に自分の意見を言えると感じる時がある。これは僕だけではなく、時々そういった話しを聞く。
英語は意見をダイレクトに述べやすい言語という話も聞いたことがあるけれど、僕は言語の構造的な理由よりもその言語に対する責任感が大きく関わっていると思う。
僕は日本語でミュニケーションをとるときは、言葉を瞬時にかつ慎重に選びながら、話をしている。誤解を受けないようにとか、気分を害さないようにとか、最近はポリティカルコレクトネスにも注意しなくちゃいけない。メールやLineでは、時間をかけて文章をつくってメッセージを送る。なぜなら自分が発した言葉には責任が伴うからだ。
責任というとちょっとおおげさだけれど、言語と自分自身がちょっと近すぎるのだ。その言葉に僕という人格がそのまま宿ってしまう気がする。だから言語化するときに、いろんなものがまとわりつく。しがらみが多いのだ。そうこうしているうちに、何を言いたいのかわからなくなってくる。
これはけっこうエネルギーを使うし、時々しんどくなってくる。
しかし、英語を話すときは、そういった責任感がちょっと薄まる。しがらみが少ない。間違えて当然だし、誤解を生じることもある程度受け入れて話すことができる。ある種の"あきらめ"があるのだ。言語と僕の間に適切な距離感がある。
相手も、こちらが外国語を話していることを前提で聞いているから、その辺りの想像力は働かせてくれる。
もちろん、正しく伝わるように気をつけては話すのだけれど、気持ちとしては率直に表現できるすがすがしさが残る。誤解を恐れないで話せる。
日本語を話すときは、どうしても"おきにいく"。思い切って腕をふれない。
そういったときに、外国語を話すと、母語のしがらみから一時的に解放される。
外国語を話す喜びの一つはこの解放感にあるのではないだろうか。