貝澤駿一「ルカシェンコの子供たち」を読む

<はじめに>
第32回歌壇賞にて、貝澤駿一の30首連作「ルカシェンコの子供たち」が、三枝昂之と水原紫苑の推薦を受けて候補作となった。貝澤のストーk…ファンならば、彼が最初に候補作となった29回以降歌壇賞において毎回予選を通過しており、今回最高得点を叩き出したことについて、感慨を深くする人も少なくないだろう。筆者は貝澤にはさらに上を狙えるポテンシャルが十分に備わっており、歌壇賞に限らず他の新人賞の受賞も間もないであろうと考えている。
本稿は、連作「ルカシェンコの子供たち」を解析し、本作のポテンシャルおよび特徴を(独断と偏見を中心として)記すものである。

<「ルカシェンコの子供たち」を読む>
さて、そもそも「ルカシェンコの子供たち」とはどのような作品なのか。一読すれば分かると思うが、『歌壇』の当該号を持っていない方もいると思うので、おおよその内容を解説する。
テキストには2つのテーマが混在している。ひとつは表題にある「ルカシェンコ」、つまり「欧州最後の独裁者」とも称される現ベラルーシの指導者、ルカシェンコに抑圧されるベラルーシの国民へと想いを馳せるパートと、おそらく教職であろう主体の日常を描いたパートである。しかしこの2つのパートは明確に分けられるものではなく、相互にかかわり合っている。たとえば、

ロシア語の教師はウクライナ人教授なりきロシア国歌は決して教えず

は、主体の身の回りの出来事を歌いつつ、ロシアとウクライナの緊迫した情勢に踏み込んでいるという点において、教職の主体のパートでありつつ東欧の今の現実とも地続きになっているといえよう。
この歌はベラルーシについての歌ではないが、事実上プーチン政権による独裁が続いているロシア、ロシアに抑圧されるウクライナといった、ベラルーシに限らない広く「東欧の独裁者」について詠んだ一連であることは明白であろう。それは、

たてがみに触れたるような冬の夜の風を感じる チャウシェスクの死

という、かつていたルーマニアの独裁者についての歌からも感じることができる。もちろん、東欧の情勢の告発、という視点からだけで読むこともできるが、この一連の優れたところはそうした独裁者の視点を、自らに引き付けて感じていることだ。2首あげる。

チョーク持つわれも暴君前置詞のルール押し付けきみたちは寝る
悪政はとおくの国の話だと言いよどみつつヘビイチゴ踏む

1首めは直接的でわかりやすい。教職としての主体が生徒になにかを教えるとき、そこに生まれるのは対等な関係ではなく、指導する・指導されるという関係である。そこでは教室という閉じられた空間において、一種の独裁的な指導者としての教職、という姿が立ち現れるであろう。そこにきわめて自覚的な主体の姿が見えるのではないだろうか。眠る生徒たちの姿は、そうした独裁に対するささやかな、しかし明確な抵抗なのだ。
2首めは「ヘビイチゴ」という道具立てが素晴らしい。この果実が踏み潰され、赤い汁があふれでた瞬間こそ、東欧の独裁者が自国民を弾圧する瞬間である。一方で、悪政は遠くの国に限った話ではなく、自国においても起こりえる、さらに言えば現在進行形で起きていることの告発とも読める。短歌という名を借りた、単なるスローガンに堕していないところを、強く評価したい。
筆者が本作品において最も評価したのが、

屹立せよ雪野の一本のひまわりよ くずおれていい革命はない
みずからを〈奴隷〉と称す草原の民のことばのひとつの叙事詩

の2首である(ほらそこ最もとかいって2首あるじゃねえかとか言わない)。いずれも東欧の諸民族への圧政に対する抵抗を、熱く応援している。実に見事な歌であった。

<「ルカシェンコの子供たち」をどう位置づけるか>
さて、一方で本作品の課題点にも触れたい。ここでは次の二点を指摘したい。まずひとつは、技術的なことについて。つまり、やや言い方が直接的すぎると感じられる点である。たとえば、14首目の

ルカシェンコの子供たちには遊び場がない 木も草も川も灰色

の、結句として「灰色」とまとめてしまう点に関しては、いささか安直さを感じざるを得なかった。また、連作の終わりの2首の結句がいずれも「村」であり、この2首はもう少し離した場所に置いた方がよかったのではないか、と筆者には感じられた。
もうひとつの課題点は、テーマと一致しない歌が含まれていることである。具体的には、

ポル・ポトと血を流したる子が語る裸足の傷の理由ぽつぽつ
マクベスとオセロー胸に棲まわせる路地のくらさに怯えるわれら

の2首である。ポル・ポトの歌は選考委員の吉川宏志が先行作との類似性を指摘しているが、筆者はそれよりもなぜポル・ポトなのか、という点が疑問であった。もちろん独裁とそれに対する抵抗という点がテーマであるため、ポル・ポトを出す意味が全く分からないわけではないのだが、本作品はあくまでも現在の東欧に主軸が置かれた連作であるため、カンボジアのかつての独裁者をなぜ出したのか、という点に疑問を抱かざるを得なかった。ひろく独裁者という点でのくくりなのかもしれないが、それでは本作を貫くテーマとはやや乖離するのではないだろうか。
次にマクベスの歌であるが、東欧をメインにした連作になぜイギリス文学を…?という疑問がどうしても出てしまう。また、『マクベス』も『オセロー』も、独裁や抑圧といったテーマからは(全く存在しない訳ではないにせよ)離れている作品である。『収容所群島』などの優れた「独裁と抑圧に対する抵抗」をテーマとした優れた東欧文学を差し置いて、この2作を登場させた理由に今一つ説得力が欠けるのではないかと思った。

と、色々書いてきたが、筆者の管見の限り『ルカシェンコの子供たち』は貝澤の現時点におけるベストであると思う。29回歌壇賞候補となった『大いなる沈黙』のイギリス文学へのオマージュと憧憬もよかったが、それを自分自身のものとしてどう血肉にしたか?という点が、『ルカシェンコの子供たち』 ほどには突き詰められていなかったと思う。第30回予選通過作の『空に敗北』にあった海外と、そこで現実に目の当たりにした課題というテーマを、題材を変えて、しかし文学的な詩情豊かに進化させたのが、本作『ルカシェンコの子供たち』だと思う。貝澤のさらなる進化を楽しみにしている。

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