お茶会に脱法パンを
法律で魔術の使用が禁じられて以来、魔法少女たちはパン工場で働いていた。
学校で最初から学び直すことを選んだ、一部の能力と環境に恵まれた少女たちを除き、たいていは働くこととなった。理由はきわめて単純だった。ほとんどの魔術師たちは簡単な読み書きや計算ならともかく、それ以上の一般的な学習には触れることなく、みっちりと魔導書の読解や魔術の実技に人生を費やしてきていた。そのため、よほど年若の魔術師や、もともと魔術以外の学問に興味を持っていた者を除くと、学費にも一般的な学校の膨大なカリキュラムにも耐えられなかったからだ。
香島千紘もそんなひとりだった。千紘は(といっても、千紘という呼び方は仲のよい友人からに限られていた。妹からはちーちゃん、パン工場では香島さん、無二の親友からはしまっちと呼ばれていた)、街の目抜き通りに並ぶパン工場に自転車で通勤していた。
魔術師や魔法少女の多くがパン工場やパン屋で働くことには、もちろん理由があった。魔術師たちが最初に覚える魔法が、パン作りの魔法だったからだ。香島家は代々魔術師の家柄だったから、当然誰もが魔法でパンを作ることができた。千紘はクロワッサン、妹の葉月はブリオッシュが得意だった。ただ、魔法の使用が禁じられている以上、彼女たちが腕をふるうことができる範囲は限られていた。
巨大な鉄の容器に、小麦粉や牛乳、バターやパン種などが混ぜられてゆく。バターの柔らかな匂いに、かつて祖母が作ってくれたパンを思い出していた。彼女が得意だったのは、シンプルな食パンだった。祖母が魔法で作ってくれたパンは、何枚食べても、毎日食べても、けして食べ飽きることはなかった。魔法少女や魔術師がパン業界への就職を優遇されたのは、優れたパンの作り方に対する知識と、よい食味のパンを食べてきた味覚に対して期待があったからだ。
ただ、この工場で作るパンはそうではない。職業柄食べる機会が多いということを考慮しても、数日食べれば飽きるし、他の食パンと代わり映えしなかった。祖母が魔法で作ってくれていたパンには程遠い。魔法少女たちのパン作りに対する智識と経験は、それがあるからこそ、かえって大量生産が必須であるパン工場で働く際には、災いすることもある。そう思っているうちに、けたたましいブザーが鳴った。オーブンの温度設定に異常が発生したのだ。千紘は、台車とベルトコンベアの間をすり抜けながら、巨大オーブンへ向かって走った。
その週末、千紘は蒸気機関車で海の近くの小さな街に向かっていた。数日前、祖母の親友の孫の菜名から、会いたいと手紙で連絡が来たのだ。彼女と千紘は幼少の頃から親しくしていたが、彼女が学校で動物学を、千紘がパン工場で働き始めてからお互いに忙しくなり、少し疎遠になっていた。隣国から大量のパンの注文が入ったため連日残業続きだった千紘は、気分転換になるいい機会だととらえて、誘いを受けることにした。地元駅を7時半に出発する年期の入った蒸気機関車に乗り、片道3時間の道のりだった。
魔法を使えたら、箒に乗って飛んでいけば1時間で着ける距離だった。雲は触れそうな距離で見ることができたし、鮮やかな色彩の羽をもつ鳥を見ることもできた。だが、今はそれができない。
しかし、千紘は蒸気機関車も好きだった。地上は上空よりも風が温かく穏やかだったし、機関車の煙を出す音や車輪の回転音、そして何より木でできた柔らかく温かな席と車両の作りが好きだった。もちろん、電化された列車やディーゼル式の列車もあったし、その方が本数も多かったし速かった。
ただ千紘は、早朝の空が次第に色彩を変えていく様子を眺めることができ、窓を開ければ優しい風を感じることができる蒸気機関車が好きだった。そしてなにより、魔法を動力とすることもできるのに、石炭をひたすら投入しながら動かしてゆく蒸気機関車で働く人たちが大好きだった。
そして幼少の頃から見慣れていた蒸気機関車の運転士と車掌の、深緑色の制服にほのかな憧れもあった。
ホームで蒸気機関車を見送ると、千紘は切符を駅員に渡し改札を出た。目の前には海が広がっていた。菜名の家までは、海岸沿いの道を20分も歩けば着く道のりだった。この道を歩くのは10年ぶりだったが、記憶はゆっくりと蘇っていた。
遠くからでもよく目立つ赤い屋根の家の呼び鈴を押すと、なつかしい顔が出迎えてくれた。
「ひさしぶり。元気だった?」
菜名は屈託のない笑顔だった。
「仕事以外は万事順調よ」
千紘もその笑顔に安心しながら言った。そして、自分も自然と笑顔になっていることに気づいた。
「ちょっと待っててね、お茶を淹れるから。家の中が散らかってるから、少し海岸を散歩してきてくれない?30分もしたら準備が終わるからさ」
機関車のダイヤの関係で、千紘は約束の時間の1時間前に着いていた。彼女は申し訳なさをおぼえつつ、30分後に戻ってくることを約束した。
懐中時計を見ると、ちょうど昼の12時だった。菜名は昼食の準備をしているのだろう。そう思いながら、千紘は海辺を歩いた。
海を歩くと、ここ数ヶ月のことが急に胸をかすめた。2ヶ月前、恋人と別れた。喧嘩をした訳ではないし、特別何かがあった訳でもない。ただ、価値観の差が、気がつけば埋めようがないほど広がっていた。そこを埋める機会は、思い返せばいくらでもあったはずだった。おそらく、お互いが我慢してやり過ごす性格が災いしたのだろう。
そして先週、祖母からもらった万年筆をなくした。18歳の成人祝いのプレゼントだった。この海のような青いインクで書く万年筆が好きだったのに、部屋を片付けた際になくしてしまった。いつも手紙はそのペンで書いていたのに。
あと、パンの大量注文に応えるための連日の残業と、そのせいで有給を全く使えなかったことも、体力的に厳しいものだった。
「いいことなんて、なにもないじゃん…」
こんなとき、魔法を使えたら少しは気持ちが楽になっただろうし、いま目の前にいる鳥とも話せただろう。ただ、それさえもできなかった。
気がつくと少し…いや、少しではなく泣いていた。気分がようやく落ち着いて懐中時計を見ると、約束の時間を10分すぎていた。千紘は涙をぬぐい、砂を払うと、足早に海岸をあとにした。
ふたたび菜名の家のドアを開けると、記憶の深いところにある匂いがした。ただ、すぐにはそれがなんの匂いなのか、千紘には思い出すことができなかった。そんな様子に気づいたのだろう、菜名はいたずらっぽく笑って言った。
「千紘のおばあちゃんからさ、食パンの作り方を習ったんだよね」
初耳だった。菜名も魔法が使えることは知っていたが、食パンを作れることは知らなかった。テーブルを見ると、バターやジャム、サラダやミルクなどが置かれた食卓の中央に、祖母が作ってくれたものと同じく、深い焦げ茶色の耳と、少しクリーム色がかった七枚切りの食パンが置かれていた。
「……菜名が作ったの?」
「そうだよ。ちゃんと千紘のおばあちゃんから習った魔法の術式と、海の塩を使ったよ。ま、味は保証できないけどね」
お互いにハーブティーを注ぎあい、ゆっくりと食パンを口に含んだ。
祖母のパンと同じ味だった。
「…おいしい…本当においしい…」
「でもこれ、当たり前だけど魔法使ってるからさ。千紘のことだから誰にも言わないと思うけど、違法パン…じゃなくて脱法パンなの。おいしいんだけどね。あ、でも他の人に言ったらダメだよ?」
そう言って笑う菜名を見て、気づけば千紘にも笑みが戻っていた。
そして、祖母との記憶が次々に蘇ってきた。一緒に海岸を歩いたこと、何度食パン作りを習っても、消し炭にしかならなかったこと、魔法動物や薬草の見分け方のこと……。
気がつけば、また涙が流れていた。しかし、さっきとは全く違う涙だった。
「あいかわらず泣き虫だなー、千紘は!」
菜名はそう言って、豪快に笑った。そんな姿も、昔と全く変わっていなかった。
渡したいものがある。そういって菜名は千紘を部屋に呼んだ。菜名らしく、小さいけれどこざっぱりした部屋で、彼女は本棚の引き出しから何かを出してきた。万年筆だった。
「私の成人祝いに母からもらったんだ。でもふだん使わないし、千紘と違って手紙も書かないから置物になってたんだよね。だから、千紘に渡したいと思って」
「でも、菜名がもらった物でしょ?」
「そうだけど、使わなかったら仕方ないし。私はあなたのおばあちゃんから、最高の食パンの作り方を教えてもらった。私はそのお礼に、万年筆をあなたにあげる。それでいいじゃない?」
受け取ると、質感も書き味もとてもしっくりときた。上物の万年筆だった。
「だからさ…」
菜名はそこでいったん言葉を切り、千紘を見た。
「また遊びに来てよ。ひまな時でいいからさ。でも、今度は10年も空けないでね!」
千紘は笑って頷いた。もうそこに涙はなかった。
見えなくなるまで手を振り続けてくれた菜名に別れを告げ、再び駅のホームに戻ってきた。海は、夕暮れの光の粒をたくさんたたえ、静かに波打っていた。
帰りも再び蒸気機関車だった。汽笛の高らかな音と車輪が回転する軽快なリズムを聴きながら、千紘は車窓を流れてゆく街を見ていた。普通の列車とは違う、揺りかごのような蒸気機関車のリズムの中で、いつしか彼女は眠りに落ちていた。
家に着くと、本棚からお気に入りの海の色のインクと便箋を取り出した。書く相手は、もちろん菜名。今日のお礼状を書くのだ。彼女からもらった万年筆が、今日から自分の相棒になる。そう思うと、本当に心強かった。ベッド脇の温かな色をした電球のスイッチをひねると、千紘はゆっくりと書き始めた。