持続可能な魂の利用

https://www.amazon.co.jp/%E6%8C%81%E7%B6%9A%E5%8F%AF%E8%83%BD%E3%81%AA%E9%AD%82%E3%81%AE%E5%88%A9%E7%94%A8-%E6%9D%BE%E7%94%B0%E9%9D%92%E5%AD%90-ebook/dp/B088NMKHM3/ref=sr_1_1?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&dchild=1&keywords=%E6%8C%81%E7%B6%9A%E5%8F%AF%E8%83%BD%E3%81%AA%E9%AD%82%E3%81%AE%E5%88%A9%E7%94%A8&qid=1613292200&sr=8-1

何故この本が気になったのか忘れてしまった(多分新聞の書評か何かだと思う)。


自分達の欲求に合わせた社会観念の鋳型に当てはめようとする「おじさん」達と、女性たちの抵抗(というか抗い)の物語。

「おじさん」とは、中年以上の男性という属性を指すのではなく、それに象徴的に現れる心性や行動様式、という程度の意味だろう。つまり、中年男性に限らず、若い女性や男性も「おじさん」足りうる。若い女性を自分が思い描く理想像に当て嵌め、それ以外の有り様を示すことを強く拒絶する態度といった感じ。

共通した登場人物による断片的なエピソードが複数提示されている。「おじさん」達の思い込みから、若い女性達が如何に抑圧され「消費」されているか。強い怒りと憎悪が、アイドルの王道から外れた「笑顔を見せず、強く挑戦的な態度」でプロモートされる××に付託され、「おじさん」達への復讐が希望として語られる。

恐らく男性に限らず、自分達が当然の事として考えていることに、実は自分の欲望が忍ばされていることを指摘されて、ドキリとさせられることがある。本作はそれと共に、デモや社会活動といった、従来若い女性とは距離があると考えられがちだった活動が交えて語られる。

これが「ジェンダーの意識化と社会化」と呼ぶのは容易だが、今の社会の閉塞感が「おじさん」のルサンチマンによるものであること、それを乗り越えるのに「近代国家としての運営の断念から放擲的独裁とアクロバット的な解決」しか最早希望が見出し得ないことは、ある種の開放感と共に、息苦しさと深い絶望感を感じる。

私の周囲を見回しても、「おじさん」的な世界観、様々な抑圧に唯々諾々として順応し、そのはけ口を性の偶像化によって確保し、自らの今の現状をルサンチマンと共に先延ばしながら生き長らえる、という生き方は最早放擲するしかないと言える。しかし、その一方で、余りにも長い期間そういった領域を放置してきたことで、有り得ない程その領域が拡大してしまい、被害も救済も制御も著しく困難な状況になってしまった。何故こんなことになってしまったのか?と強い憤りを感じずにはいられない。

「外国から帰ったばかりの敬子は、その国の人たちのコミュニケーションの取り方や生き方といったものと、自分の住んでいる国のそれがまるで違うということを痛感していた。そんな現場に遭遇するたびに、現実が歪むような感覚を覚え、クラクラした。

どうしてこんなに違うのだろう。

どうしてこんなに不自然なんだろう。

敬子は心の底からその理由を知りたくなった。

買う側と売る側が対等な関係で、日常会話の延長に過ぎないやりとりを交わすことに一度慣れた身には、店員と客を上下に分断する過剰な接客は、どちらにとっても不幸せに感じられた。何か大切な、明るいものが失われているように思われた。」(本書P32)


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