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宮川香山を忘れないために

横浜の伝説的陶磁器師、宮川香山を推し続けるnoteに、
ようこそお越しくださいました🥰

皆さま、メリークリスマス!!🎄🎄🎅🎄🎄

寒さも本番、年末に向けて大掃除🧹をする方も、おせち🎍の準備をしている方もいらっしゃるでしょう。
私の推し活も1年経ちました。今日は初心に帰って、自分の活動を振り返りたいと思います。


宮川香山の普及活動をする動機について

私の最推し、宮川香山を知っているという方は、
この世界に、どれ位いらっしゃるのでしょう。

陶芸という分野はあまりに幅広く奥深いです。
一般的にやきものというのは産地で作品を区別し認識する場合が多く、
あまりに沢山の先達がいるので、陶芸家に聞いてさえ、
「その道の人なら誰でも、全員がその人を知っているでしょう」
という特定の陶芸家や陶工などは、そうたくさんは居ないように思います。

陶芸家の先生たち何人かに取材をしてきましたが、
特定の陶芸家に強く惹かれてやきものを始めた、というよりは
元々モノづくりが好きだったからという理由で始めたケースが多く、

・修業した場所
・元々興味があり作りたかったやきもの
・生家の環境
・読んだ本
・作品の売りかたや発表手段

などに基づいて自分だけの陶技と作風、主義を
深めていらっしゃる印象でした。
それでも必ず(自身の作風に影響するとは限りませんが)、
好きな陶芸家はいるようです。

宮川香山もまた、誰もが知っているわけではなくても、
好きな人は、この世の中に、たくさん散らばっていると思います。
「誰よりも宮川香山と横浜眞葛焼が好き!!」
そういう人達がまとまったら、強いんじゃないかと、私は常々思っています。
それはつまり、宮川香山を風化させないための、記憶の貯蔵庫の規模が変わるということです。

はじめ、私は眞葛焼の復興を、このnoteで語ってきました。

  • 横浜で活動する陶芸家さんに、眞葛焼の後継が現れるかもしれない。

  • 世界規模で意識され始めたECOの時流に乗り、今後国家規模で行われるであろうリサイクル陶磁器事業の先駆けとして、横浜の都市鉱山を開拓し眞葛焼の再解釈として販売する。

  • 私が眞葛焼を学んで後継者になる。

しかし、復興のための取材や資料の検索、実際に自分が基礎を実践してみて、
どれほど初代香山が孤高ともいえる超人的技術を持っていたのか分かりました。
ホントにホントに、難しくて奥が深いんですよ陶芸って……
私は先ず土殺しの時点で苦戦している状況です😭
それで復興語るのオソロシイ……
やきものを広く調べれば調べるほど情報がでてきますし、一つ突き詰めればいいわけではなくて、色んな技術の複合が一つの作品を形作っているようですし。
リサイクル陶磁器に関しては、現在のニーズそのものを私が見誤っており、宮川香山の思想の解釈を拡大し過ぎたきらいもありました。

香山の究極の美

復興を安易に口に出来たのは、無知の特権でした。もう私は、そんな大それた考えを持つことはできません。

それでも、恥をしのんで大夢を語るなら、
陶芸に詳しくなくても、横浜の眞葛焼と聞いてその造形が脳裏にピンと来る、誰もがそうなる日を目指しその状態を維持したいのです。

なぜ宮川香山はもういないのか

昭和20年5月29日(月)。快晴で風のないこの日、午前9時過ぎに、横浜の空はアメリカ軍のB29爆撃機とそれを支援するP51戦闘機からなる600余機の大編隊に覆われ、市街は容赦ない爆撃にさらされました。
工業、商業、住宅地区とを問わず、無差別に投下された43万個以上もの焼夷弾は市街を猛火と熱風で包み、1時間あまりの爆撃と引き続く火災によって、横浜は、正午までにはその過半が瓦礫の街と化しました。

この横浜大空襲は、数千人の人命と被災者30万人以上の生活を奪う惨禍となりましたが、失われたのはそれだけではありません。幕末開港以来の歴史を物語る景観や数々の史跡、・文化財が灰燼に帰し、また横浜に育まれた独自の生活様式や文化的な伝統も、その多くがこの戦火によって命脈を断たれました。

横浜大空襲の後の横浜中華街一帯(横浜市史資料室所蔵)「産経新聞【フォトギャラリー】横浜大空襲から74年 「見渡す限りの焼け野原」戦争の悲惨さ語り継ぐ」から引用

被災地の一角、南区庚台6番地でも、横浜が長らくその誇りとした「眞葛焼」が、この大空襲によってこの地上からその姿を消しました。

眞葛焼は、明治初年から昭和戦前にかけて内外の博覧会や美術展で数々の受賞をかさね、「マクズウェア」として海外にも広く知られた横浜の名窯です。

しかし、先述しました昭和20年5月29日の空襲によって、工場と住居が全焼。その創業者宮川香山には孫にあたる3代香山宮川葛之輔も家族および従業員ともに焼死し、ここに眞葛焼は、その担い手と数々の作品、また自家の歴史を伝える貴重な資料の大半を失うことになったのです。

失われた資料とは具体的にいうと、
眞葛焼がその誇りとした窯技の卓越性を物語る数々の賞牌や賞状、また、製作に関わる原土・釉薬の配合帳や図案表、あるいは、推移する時代の要求に応えつつ、70年以上にわたって維持された窯の歴史を伝える日誌や仕入・販売帳もしくは顧客名簿の類、などなどです。

担い手も資料も失った眞葛焼は再興が厳しく、近所に分家していた3代目の弟にあたる智之助が4代目を襲名し、空襲の3、4年後、復興窯で作品を残しましたが、4代目が74歳で倒れた1959年、眞葛焼はその歴史に幕を閉じました

宮川香山を愛し続ける人

3代香山葛之輔の次男にあたる宮川博明さんは、語り部として家族と窯の記憶を人々に広め、眞葛の作品を守ってきました。
2012年に博明さんが亡くなり、今は長男の眞さんが、先祖の偉業を守り伝えていらっしゃいます。

そして忘れてはならないのは、横浜眞葛焼の最大の功労者と言われる眞葛焼研究家であり保護活動家かつ眞葛ミュージアムの創設者である山本博士さんです。
この方の、長年を懸け積み上げた功績は数知れません。
私は私淑する山本博士さんの香山への深い愛とその確固たる行動力に憧れ、1年ほど前から眞葛焼の普及活動をしてきました。

この様に、香山を忘れないように、彼を愛し慕う者が、香山の記憶を人に語り継いでいます。
私も知り合いに積極的に香山の話をしていますが、私は交友関係が広いとは言えず、現在応募中の神奈川文芸賞での眞葛焼短編の受賞が叶えば、眞葛焼小説を出版したいと考えております。

年末は心も大掃除

このnoteのブログ執筆も、眞葛焼の普及活動が第一であることを、常に忘れないようにしていきたいと思います。らむーら塩による、今年の活動のまとめでした。



参考資料:
「横浜美術館叢書⑦宮川香山と横浜真葛焼」二階堂充著(引用部分:12P「はじめに」)

写真引用:


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らむーら塩
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