【NGOミニマム寄稿エッセイ②】「言語の習得」が道具化する社会〜17歳の少女の一言から始まったタイ社会への一考察〜
「日本語でもいいです」
「もしさ、今勉強している英語以外の外国語を勉強するとしたら、何語を勉強したい?」
自分はみんなに問いかけた。みんなは首を捻り始める。
「さあ、何語?はい、君!」
アリヤさんに指名され、みんなはそれぞれ言語を挙げていく。
「韓国語です」
「私は中国語かな?」
「僕は日本語」
その場にいた全員の視線が、未だ首を捻っている女の子に集まる。彼女が最後の一人だった。彼女のすぐ傍にいるアリヤさんが彼女を促す。
「ほら、何語勉強したい?」
彼女は笑いながら答えた。
「อือ…ภาษาญี่ปุ่นก็ได้ค่ะ(うーん、日本語でもいいです)」
「そうなんだ…」
笑顔を繕いながらも、自分は胸に込み上げてくる思いを必死に抑えていた。「ภาษาญี่ปุ่นก็ได้(パーサー・イープン・コ・ダーイ)」 “日本語でもいい” …。その声調も長短もはっきりした一言が、チェンマイに戻ってきた今も頭の中で繰り返されている。
***
言語を学ぶということ-母語・非母語を問わず-それは自分の短い人生の中でも、自分が最も時間を費やしたことの一つだった。
中学校に進学したとき、今まで学ぶ機会のなかった「英語」という言語に惹かれ、夢中になって勉強した。高校生の頃はタイ人の友人と話したくて、大学でタイ語を専攻した。日本語の奥深さに惹かれて、外国語としての日本語教授法を学び始めた。
自分は「役に立つから」という理由で、言語を勉強し始めた記憶があまりない。大学入試の出願書類や面接では、「タイの国境地域の子どもたちに対して教育の権利を保障する活動がしたいから、タイ語を学びたい」などと最もらしいことを並べてきたことは事実だ。それはあくまで「入試」だからのことだった。
「くねくねしていて何だかよくわからなかった文字が、知っている音に変わった!」
「タイ人の友達と好きな歌手についてタイ語でおしゃべりできた!」
「字幕なしでもタイドラマがなんとなくわかる!」
「ゆっくりだけれどもタイ語の小説が読める!」
タイ語を学ぶことで、自分の知っている世界が少し広がった気がした。この「世界が広がる」感覚が、何かを学ぶ原動力になる。言語も然り。言語を学ぶということ。それは自分の知ることのできる世界が一つ増えることを意味している。少なくとも、自分自身はそう考えてきた。同じように感じている方も多いのではないだろうか。
言語を学ぶということに対して、自分はそんなイメージを持っていた。だからこそ、彼女の “日本語でもいい” は、最初は理解し難いものがあった。しかし、彼女のその一言は、タイという社会において埋め込まれている、言語や外国語に対する考え方を体現していると、最近は強く感じる。
「“道具” か “教養” か」を超えて
こちらの大学でできたある友人は、卒業後にニュージーランドに1年間仕事をしに行くよう促されているという。それを強く推す、彼の母親に聞けば、「大学を卒業した後もタイにいても、特にできる仕事はない。英語ができれば帰ってきたときに就くことのできる職が増えるから」だとか。では、現地でどんな仕事をするのか。「給仕でも皿洗いでもなんでもいい。とにかくニュージーランドで働いて、英語ができるようになれば」
大学で日本語を専攻している友人がいる。彼女に、日本語を学ぶ理由を聞いてみた。返ってきた答えは、ある意味では模範的な回答だった。「日本企業で働くときには、日本語能力試験の成績で初任給が大きく変わってくる。だから、とにかく在学中にN1を取得するために勉強している」
バンコクの大学の日本語専攻の授業に、僕は1タームほど顔を出していたことがある。ある日、出版会社から特別講師を招いての授業が執り行われた。翻訳出版物の編集を行うというタイ人の女性は、非常に流暢な日本語で、教室内の学生一人一人に尋ねた。「大学出たら何をするために、日本語を勉強しているんですか?」数人に聞いたのち、彼女はさらっとまとめ上げた。
「大抵は、通訳か翻訳ですよね」
一般に、言葉は道具である。道具としての本質が強い。学び手は仕事やその他の有益な「道具」となるように「言語」を勉強している。少なくとも、今あげた3つのケースでは。
でも、言語とは、本当にそれだけなのだろうか。例えば、最後の日本語専攻の学生の例。別に将来「通訳」なり「翻訳」なりをするためだけに、言語を勉強しなくてもいいのではないだろうか。日本文学を読んでみたい。日本の社会の研究をしたい。いやいや、「将来」にどうつながるかはわからないけれども、好きだから日本語を勉強している。そんな自由があってもいいのではないか。その時の自分は素直に思った。少し硬い言葉を使うのであれば、「道具」としての言語だけでなく、「教養」としての言語もあっていいはずだ。しかし、「道具としての言語」と「教養としての言語」という構図を示すことだけここでの目的ではない。むしろ、今考えたいのは、「言語」が道具化されるという事象ではなく、ある社会における、「言語を学ぶこと」そのものが道具化されるといった現象だ。
道具化される「言語教育」「言語学習」
外国語を扱う学部・学科の名称には、日本とタイで興味深い「違い」がある。日本の大学では、専門的に外国語を学ぶ課程は、「文学部」の「英文科」「仏文科」といった学科に設置されているのが一般的だ。伝統的には、言語が「文学」というキーワードとセットになっている印象がある。明治時代から翻訳が盛んだった日本では、「言語を学ぶということは文学を学ぶことと切っても切れない関係にある」という前提意識がどこかにあるのではないかと個人的には考えている。言語を学び、文学を学び、そこからその社会を切り拓く、という意識である。(もちろん、西洋近代の知を日本に取り組み、近代化を促進するための「道具」として「翻訳」が行われ、機能していたことは事実である)
一方でタイはというと、学部名は「文学部」「人文学部」「教養学部」などであるが、学科レベルになると「日本語専攻」「英語専攻」「フランス語専攻」というような課程に設置されている。「◯◯語専攻」という名称からは、言語そのものを学び、実践的な何かに使えるような人材を育てるというような意図が、どこか透けて見える。
学び手の意識だけではなく、学びを提供する側にも、「道具としての言語」が定着しているように見える。しかし、「○○語専攻」を設置することに関しても、実際にはそれを決定する側の意図がある。誰かが何かの目的のために、学生に対して「道具としての言語」を学ばせるために、「○○語専攻」を設置し運営している。と、すると、「道具としての言語」に加え、次のような見方もできるのではないだろうか。すなわち、「道具としての言語学習・言語教育」という見方だ。言語学習が道具化する社会。これは決してタイに限ったことではない。
この現象は、日本においても見受けられる。大学のパンフレットで見かける「実践的な英語力」、主に中学高校の英語教育改革で見られる「4技能5領域」「言語活動(アクティビティ)中心型の授業」、高校の国語教育における「論理国語」…。言語には直接関係しないようにも見えるが「グローバル人材」という言説やそれを取り巻く議論や主張も、この現象を内包しているように思える(産業界や学校教育において違和感なく使用されているようにも見える「グローバル人材」という言葉だが、それが実際には何を示唆してきたのかを知りたい方は、この言葉の系譜をぜひ調べてみてほしい)。
教育政策におけるこのような(実際は決して新しくない)流れは、意思決定に関わる政官や産業界からの意図が反映されていると考えることは自明だ。社会改良主義的な視点から決定される言語教育政策には、当然ながら「言語教育」を通して何かを実現したいという事実が存在する(このことが論点ではないのでここでは詳しくは触れないし、このことに対する良し悪しの価値判断もここでは控えたい)。
「言語学習」や「言語教育」が道具として捉えられる。これはどの社会においても存在することだろう。それ自体に良し悪しをつけることは容易ではないし、そもそもここで判断するつもりもない。一方で、この現象が社会に普及している度合いには、社会によって確実に違いがあるだろう。少なくとも、ここタイでは、その傾向が日本よりも強い。その背景には、社会学者のいう「後発効果」なるものが作用しているのではないかと感じる。
「後発効果」
日本社会論の研究者としても知られるイギリスの社会学者ロナルド・フィリップ・ドーアは、1976年に『学歴社会 新しい文明病(原題:The Diploma Disease: Education, Qualification and Development. 1976)』という著書を発表した。遅れて社会の近代化が進む国において、学歴獲得競争が激化するメカニズムを、イギリス・日本・その他後発国との比較を通して検討した社会学的名著であると言われている。
先駆的な工業国とされているイギリスだが、18世紀後半に始まった産業革命に教育はほとんど貢献をしなかったという指摘から論は始まる。当時の教育機関は、上流階級における文化の伝達の場。実際に産業革命に貢献したのは、工場等の現場における知的伝達だった。教育の選抜機能は、産業革命以降に誕生したものであった。
一方で、西洋の先進国から「近代」を取り入れようとした日本のような当時の後発国は、西洋近代に追いつくために「教育」を直接輸入した。大学での卒業証書は-つまり「教育」は-より良い職に就くための道具となったのである。このため、開発の始まりが遅ければ遅いほど、教育と社会の関係において「後発効果」が生じることになる。
本書でドーアが述べる「後発効果」とは、ざっくり以下のようなものである。すなわち、民主的な制度や旧来的な階級の有無といった諸条件が等しければ、開発の始まりが遅ければ遅いほど、①学校の修了証が求職者選抜に利用される範囲が広く、②学歴インフレーションの進行が早く、そして③学校教育が受験中心となる、という理論だ。
ここで注目したいのは、「学歴」が社会においてその人物の能力や信頼を定義する「象徴的指標(ギデンズ 1991=2021)」として作用している点を指摘しているということだ。「○○大卒」という肩書きが、まるで日本における硬貨・紙幣と同じような普遍的指標として国全体で扱われるのだ。当然ながら、その象徴的指標を獲得するための動きが現れてくる。自分はこれを「学歴獲得の道具化」と呼んでみたい。
「言語学習の道具化」への応用
しかし、理論というのはあくまで社会を見る物差しを提供するものであり、その使い方や使い勝手は分析の対象によって変わってくる。タイという国にも、当然ながら「学歴」が象徴的指標となる現象は以前より起きている。大学に進学できる層の人間が、一流の大学を目指して競争し合う様子は日本のそれと近しいものがあるように感じる。しかし、「学歴」が象徴的指標として機能する度合いはというと、日本よりも弱い印象も否めない。
例えば先ほどの、ニュージーランドへのワーキングホリデー留学を考えている友人だが、「学歴」に関しては人に自慢できるほどのものを持っている。当時タイ国内でトップ10にランクインする公立中高一貫校を卒業し、タイ国内3位の大学にて社会科学を専攻している。そんな彼でさえ、就職は思うように進まず、かといって日給300バーツスタートの公務員になるのにも躊躇いを覚え、親に強く勧められている「海外での語学修行」を(最初は)不本意ながらも準備を進めているのだ。「英語ができれば仕事ができるから」という理由で。
タイでは「後発効果」の影響として、学歴に代わって、あるいは学歴と並行して、「語学」なるものが象徴的指標として作用しているのではないかと感じている。誤解を恐れずに言えば、トップの大学を出ても職がないという事象は、その社会における労働市場が高等教育卒の人間の受け皿となるほど成長していない、あるいはその成長が広がっていないと考えることができるだろう。そうなったとき、その労働市場で使える象徴的指標は「学歴」ではなく、他のものになることも十分に考えられる。
そもそもドーアの挙げる日本とタイでは、同じように「追いつき、追い越せ」の近代化を進めてきた社会ではあるものの、学歴インフレーションのプロセスには違いが認められるだろう。階層・階級に基づいた前近代的な教育を断絶させ、西洋の方法を使用して「よーい、ドン」を切った日本の教育は(内実はともかくとしても)平等主義的な性格を強調していた。機会を平等にして、全員が同じ立ち位置に立っているように見えても、実際には本人の生まれによって左右される、本人には解決し難い要因が存在することが日本では度々指摘されるようになってきた。一方でタイは、生まれによる違いは当然あるものの、そもそも機会の平等自体を十分に保障する制度–いわゆる「個人の能力に基づく」評価の制度–そのものの発展が相対的に遅れ気味だったのだ。
「後発効果」に背中を押され、いわゆる「学歴病理」と同じように、外国語が象徴的指標として認識され、言語を学ぶこと自体が社会移動の道具として扱われる社会。他に誰かがやっていなければ、いつかの研究テーマとしてここに綴っておきたい。
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さて、冒頭に挙げた「อือ…ภาษาญี่ปุ่นก็ได้ค่ะ(うーん、日本語でもいいです)」
という一言、これは自分自身が初めてチェンライにある「ABU ALI」のシェルターを訪問した際に、17歳の専門学生から耳にした言葉である。市街地にある「ABU ALI」のシェルターでは、専門学校に通う十数名の子どもたちが生活している。数年しか歳の変わらない自分が、母語である日本語、義務教育の時から必ず習う英語の他に、タイ語を学んでいるという事実に、彼らはある種の驚きと関心を示していた。
「タイ語をやって何をするんですか?」
こんな質問も絶えない。言語習得という象徴的指標は、この子たちにも、そして彼らを支える大人たちにも浸透している。それがいいとか悪いとかではない。ただ、そんなことを滅多に考えずタイ語を勉強してきた自分からすると、少し居心地が悪いところはある。
一方僕の隣では、ご自身も日本語を流暢に話せるスタッフのアリヤさんが、「言語を学ぶ意味」について熱弁を奮っていた。アリヤさんのご経験や考えもいつかゆっくりとお聞きしたかったのだが、その時は素直に子どもたち–弟・妹たち-の心のうちを探ってみたかった。
「もしさ、今勉強している英語以外の外国語を勉強するとしたら、何語を勉強したい?」
この質問に、もっと自由な答えが返ってくる日まで、自分はこの国に関わる続けるのかもしれない。しかしそれは、恵まれた環境に生まれた気ままな大学生の奢りにすぎないのかもしれない。