【Essay】marginal man:タイの中で日本人として生きて
marginal man.
タイに留学する前、ある社会学史に関する本を読みながら、この言葉に出会った。プロイセン生まれの社会学者ゲオルク・ジンメルが提唱した「Stranger(よそもの)」という概念を、後にシカゴ学派のロバート・エズラ・パークが一般化し、「marginal man」という概念としてまとめ直したという。様々な集団に属しているために、本質的にはどこにも属していない人々のことを、「marginal man(境界人)」と呼んだらしい。
もっとも、自分はジンメルもパークも原書を読んでいない。ただ、この「marginal man」あるいは「marginal person」という言葉が、留学中は常に胸の内に引っかかっていた。
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自分はタイにいるとき、確かな居心地の良さを感じていた。
自分は日本人で、日本人として、タイで暮らしていた。現地の人からも、คนญี่ปุ่น -日本人として扱われていた。
それは時に嬉しく、時に虚しくもあった。
タイは親日国だと言われている。もちろん、歴史を振り返れば「親日国」とひとまとめにはできないのだけれども、少なくとも日本に良い印象を持っているタイ人は多い。日本人というだけで、自分に対して良い印象を持ってもらえる。
ただ、それは別に自分にいい印象を持ってもらえているのではない。自分という一個人は、日本人であるという色眼鏡を通して語られるのだ。日本人であるという以外に、そこには「自分」は存在しない。
一方で、自分は日本人でありながら、日本にいるわけではない。幼い頃から感じてきた、なんとも言えない息苦しさを感じないで暮らしているのだ。日本に身を置いていないというだけで、日本人である自分も、どこか現実味を帯びていない。日本人でありながら、「日本」という社会や、そこの人間関係から隔絶されている。少なくとも、距離をとっていられる。
そう、自分はタイから日本を眺めてきたのだ。自分の生まれた国が崩れていく様を。でもその崩壊の様子も、遠いどこかの国を見ているような感じがしたのだ。
同時に、自分はタイにいながら、タイ人ではない。他のどの外国人よりも、タイ人と距離が近い場所にいたのは事実だろう。自分はタイ語ができた。言語という面では、タイで暮らすことにも、タイの人々と意思疎通を図るにも、大きくは困らなかった。
タイ語を通してタイの人々と交わるということは、その人々と同じ高さの視線で世界を見つめることができる。少なくとも、彼ら彼女らの等身大の世界を垣間見ることができる。だから、自分はその時だけ、「タイの人」になれるのだ。しかし、自分は「タイの人」になり得たとしても、タイ人ではない。いずれは日本へと帰る、一人の交換留学生に過ぎない。この社会に果たすべき市民的責任は、自分にはない。同じ高さの視点でものを見て、同じような感情を抱いたとしても、自分は所詮、外の人なのだ。外の人でいることができる。この国で起きた喜劇にも悲劇にも、無関係でいられるのだ。
究極的に、自分は日本にもタイにも属している。日本人でありながら、日本という社会から距離をとっていた。タイという社会に浸りながら、タイ人ではなかった。日本にもタイにも属しながら、本質的にはどちらにも属していなかった。marginal personだ。なんと都合のいい話だろう、と思われるかもしれない。ただ、これこそが自分が求めてきたものなのかもしれない。
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marginal person
考えてみれば、これはどこかに属することの息苦しさを軽減する生き方なのかもしれない。人は何か一つの集団に属するとき、その集団の全てに縛られているような感じがする。日本に生まれたのだから、日本に対して好感を抱いていなくてはいけない。日本に生まれたのだから、日本人として振る舞わなくてはいけない。日本に生まれたのだから、日本の良さを発信しなくてはいけない。日本に生まれたのだから…。そんな単純な話だろうか?
自分は日本人で、自分の生まれた国が好きだけれども、日本の全てを誇りに思えるわけではない。自分は日本の豊かな自然が好きだ。日本語が好きだ。「つまらないものですが…」という言葉に込められた謙虚さが好きだ。でも、日本の政治は好きではない。自分が誇れる日本と、そうでない日本があっていいはずだ。自分が心地よいと感じる日本があって、そうでない日本があっていいはずだ。全てを否定することもなければ、全てを肯定することもない。それでも、そんな人間でも、「日本が好きだ」と言っていいはずだし、「日本が嫌いだ」と思ってもいいはずだ。
自分にとってのタイも同じだ。自分はタイが好きだけれども、好きな気持ちと同じくらい、自分はタイが大嫌いだ。好きであり、嫌いでもある。その矛盾が、時に、いや常に、自分を苦しめてきたのかもしれない。
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