【Essay】十九歳で母になるということ〜タイの山地で出会ったある少女について〜
親になる。
これは、自分が小さい頃からの憧れだった。我が子の成長を一番に考えてくれた両親の影響だろう。
両親の人生には、挙げればキリがないほどに、息子のための「犠牲」が存在している。子育てのための引っ越し、転職などはもちろんのこと、決して裕福ではないのにも関わらず、我が子がしたいと思うことのために大学にまで通わせてくれている。自分が「親」という存在に憧れるのは、私のために人生をかけてくれた両親のことを、世界で一番尊敬しているからだ。
自分はいつまでも親になれないのではないかという葛藤も、少なからずある。自分は誰かの親になれるほど、責任を果たすことのできる人間なのだろうか。子どもを授かれるほど、自立/自律した人間になれるのだろうか。両親のように、子どものために自分の人生を全て捧げることができるのだろうかと、思い悩む夜がある。
「結局は自分が一番大切なのだ」
心のどこかでそう思っている。
誰かの親になることに憧れる傍ら、私は常に問い続けている。自分には親になる資格があるのか、と。
ある山岳少数民族の少女K
私にはどうしても忘れられないタイの女性がいる。仮に彼女を「K」と呼ぼう。初めてタイに訪れたときに知り合った、山岳少数民族であるラフ族の少女である。歳は自分よりも一つ下で、タイ北部の山奥にある小さな村に住んでいる。本人が十九歳になった年、彼女は一人の女の子を授かった。齢十九にして、彼女は一女児の「母親」になったのだ。
開発途上国における数々の先行事例を考えれば、それほど若い母親でもないかもしれない。日本においても、Kくらいの年齢で結婚・出産する人は決して少なくない。しかし、自分の身近な知り合いの中に、この若さで出産をした人は聞いたことがなかった分、受けた衝撃は大きかった。
その衝撃に追い討ちをかけたのが、生まれてきたその子どもには父親がいないという事実だ。もちろん、血の繋がる父親は確かに存在する。しかし、彼女と暮らし、彼女を側で愛で、彼女にとって「安全基地」たる父親はいない。僕の知っている限りでは、Kは出産する前にパートナーと破局している。
彼女のFacebookには、安らかに眠る赤ちゃんを撮った写真が幾度となく投稿されている。幾度となく寄せられる「お父さんに似ているね」というコメントに、Kはこう返している。
「似てほしくない」
「お父さんはいない。独身の(母親の)娘よ」
ある意味ではタイの山地社会における典型を示しているのかもしれない。
今日も彼女のFacebookには、母娘が添い寝している写真が投稿されている。「私たち(二人)でいれば、他には何もいらない」というキャプションとともに載せられているその写真を見つつ、「親になるということ」について、懐かしいタイの風景を思い浮かべながら、今日も一人、考え込んでいる。
Kの村へ
高校を卒業した年の三月、私は初めてタイへ渡航した。最初に訪れたのはチェンライという県だ。東はラオス、北はミャンマーに隣接している、タイ最北端の地域である。東南アジア大陸部の山塊につながる高地には、ラフやアカ、カレンといった多くの山岳少数民族(ชาวเขา)の村が点在している。
山岳少数民族の教育支援を行うNGO団体に連絡を入れており、山岳少数民族の村に案内してもらう予定となっていた。NGOで代表を勤めているMさんは、温厚で知的な笑みを浮かべながら、私たちをKの村へ案内してくれた。
NGOの経営する学生寮から約一時間。トヨタのピックアップトラックは、平らにならされた山の道をひたすら登っていく。僕は通訳をお願いしていたタイの友人三人と荷台に座り込み、異国情緒漂う熱帯林を三六〇度満喫していた。
そこはG村という村だった。山の斜面の比較的なだらかな土地に、竹やその他木材でできた高床式家屋が数十棟建っている。村人は、街の市場で見かけるようなありふれたTシャツを纏い、下はミャンマーのロンジーを彷彿させる布を腰に巻いている。高床の下に括り付けたハンモックで子どもが遊んでおり、その子に向かって白い痩せた犬がしきりに吠えている。
村に通っている道からは、谷間を流れる川が見下ろせる。川はさらに東まで流れていき、やがてメコン川に合流する。
暑季の始まりだった。子どもたちにとって、川は絶好の遊び場だ。
「若い男女を全くと言ってもいいほど見ないですね」
今夜、私たちと一緒に村に泊まるIさんが呟いた。Iさんは寮でボランティアをしていた。以前は日本で某メーカーに勤めていたというIさん。多忙な日々に飽き飽きし、いつしかタイで暮らすようになったという。いつでもムッとした表情をしているが、お子さんがいないIさんは、私を実の息子のように可愛がってくれた。実際、Iさんと自分の父親が同い年だったことは余談である。
Iさんのおっしゃる通り、村では若い男女をあまり見かけない。MさんやIさんの感覚では、山岳少数民族の早婚傾向と離婚率の高さには極端なものがあるという。同じ村や近隣の村の中で、若い男女が結婚し、子どもを作るも早々と別れ、街に降りるなり別の村に行くなりで、村に残らないケースが多い。
私たちは当時寮生だったKの家に二泊させていただくことになっていた。実際に泊まったのは、Kの一家が所有している家屋の一棟で、目の前にはもう少し大きな母屋があった。母屋では、Kの祖母が小さな子どもたちの面倒を見ていた。四、五歳くらいの子どもたちのことを、Kは「妹(น้องสาว)」「弟(น้องชาย)」と呼んでいたが、実際に血が繋がっていたかどうかはわからない。
村を案内してくれたり、滞在のお世話をしてくれたりしたのは、Kともう一人の寮生だった。いわゆる、人生で初めての「ホームステイ」である。
「Kって、可愛いでしょう?」
Iさんが唐突に尋ねてきた。事実、Kは美人だった。全体的にすらっとした体型で、背が低いながらも足が長く見える。大きいがアジア人らしい細さを供えた瞳。日に焼けていない真っ白な肌。ほどほどにふくよかな頬。加えて、長いストレートな髪が彼女の美しさを際立たせていた。なるほど、寮でも学校でも「一番の美女」と言われるのも理解できるかもしれない。
容姿だけではない。Kはとても面倒見の良い人だった。泥だらけになった弟妹たちに水浴びをさせるとき、祖母と一緒に洗濯物を干しているとき、食事の残りを飼い犬たちに与えているとき、僕は何度となく彼女が微笑むのを見てきた。小さな子どもたちはKを取り合っていた。
ある日、家の前で子どもたちが遊んでいると、喧嘩が始まった。ペダルの取れた三輪車三台をロープでつなぎ、子ども三人がそれぞれの三輪車に乗った状態で、先頭に座っていた男の子が思い切りロープを引いたのだ。すると、二台目に座っていた小柄の男の子が転倒してしまった。転倒した子は号泣しながら、先頭の子を殴ろうとしている。身体の大きい先頭の子は、その子をさらに泣かせてしまう。私が仲介しようとすると、私に懐いていた先頭の子が私の腕をぎゅっと掴み、号泣している方の子を指差しながら、わからない言葉で必死に何かを訴えかけてくる。
三台目に乗っていた女の子がKを呼んできた。Kはスマホを片手に走ってきた。今度は泣いている子がKの腕を掴み、必死に何かを訴えている。Kは表情を変えないまま何かをつぶやいた。すると、さっきまで号泣していた子がヒュッと泣き止み、私の腕から男の子が離れ、やがて二人同時に深いお辞儀をしているではないか。絵に描いたような「喧嘩両成敗」だった。信玄もびっくりだ。
私はちらっとKに目をやった。彼女もこちらを見つめていた。そして、何も言わずに微笑んで、スマホを片手にどこかに消えてしまった。気がつけば、子どもたち三人がもうボールで遊んでいる。
何をするにしても、彼女の口角は上がっていた。しかし、時に谷間にある川に向けて険しい眼差しを向けていた。その瞳には何が映っているのか、私は今でも考える。
山岳少数民族(ชาวเขา)
ラフ族は、東南アジア大陸部の山岳地帯に点在する少数民族(ชาวเขา)の一つである。国家を築いた平地のタイ族やビルマ族と一線を画し、独自の文化や言語を保っている民族の一つだ。ラフにはラフの言葉があり、アカにはアカの言葉があり、カレンにはカレンの言葉がある。しかし実際には、すでに山の麓に広がりつつある近代社会や物質文化に飲み込まれつつある。
写真家でもあるMさんが、三十年に及ぶタイ滞在の中で撮りためた山岳少数民族の写真をよく見る。写真の中の彼らは、荒涼たる山をバックに、色彩豊かな民族衣装を身にまとい、佇んでいる。だが、それはもう昔の話。いつの間にか彼らは民族衣装を脱ぎ、怪しい外国語の書かれたコピーTシャツを着こなしている。
本来、農業は自給自足の手段だった。今は、とれたての野菜をピックアップトラックに積み込み、長い、長い山の道を下り、街に売りに行っている。現金がなくても食べていける。しかし、現金がなければ、車も使えないし、スマホも使えないし、子どもたちも学校へは通えない。
村の中では、Kたちはラフの言葉で話している。当然、私の友人も理解できない。しかし、Kは流暢なタイ語を話した。山の麓の学校ではタイ語で学び、タイ語でアルバイトをし、タイのメディアに浸っている。何かを考えるときも、頭の中ではタイ語が飛び交っている。
タイの山岳地帯では、固定電話のインフラが整備される前に携帯電話が普及した。今やスマホを手にしていない山岳民族の方が稀な印象がある。若い人は皆、あの四角い画面に釘付けになっている。山はある種「何もない」空間だ。スマホで世界が広がった、とも言えるかもしれない。スマホで自分の写真を撮り、加工し、そして「誰もあなたの相手をしないなら、私の隣にいて♡」等々、よくわからないコメントを付して、Facebookに投稿する。スマホで世界が広がったのか、スマホに閉じ込められているのか、僕にもよくわからない。
女子高生の「事実婚」
彼女はNGOの支援を受けながら、専門科の高校に通っていた。初めて会ったのは、彼女が十七歳の時だった。その時は、私は全くタイ語がわからなかったから、彼女と話すことも叶わなかった。帰国直後からタイ語を学び、その三ヶ月後、私は再びチェンライを訪れた。Iさんとタイ人スタッフの方が、私を山の上にある新しい小学校へ案内してくれる予定になっていた。驚いたことに、二人の寮生が学校を休んで一緒に行くことになっていた。そこに、Kがいた。
その小学校は、G村からさらに山を登ったところにあった。五年前(当時)にできたばかりの学校で、児童はみんな、周辺の村に住むラフの子どもたちだった。前回、私が親しくなった、Kの「弟」や「妹」もそこに通っているという。ただし、あるのは小学校だけで、中学校に関しては未だ山の麓の学校に通う必要があるという。
尾根をそのまま道にしてしまったような道路を通っていると、トラックが止まった。景色が一番綺麗なところだから、ここで写真を撮ろうと、タイ人スタッフの方が言った。一番喜んでいたのは、荷台に座っていたKたちだった。
延々と連なる山々を背景に、ありとあらゆる角度から自撮りをし、ありとあらゆるポーズでスタッフの方に写真を撮ってもらっている。村では見られなかったKがそこにはいた。じっと見つめている私に気がつくと、彼女は照れ臭そうに微笑んだ。どこにでもいる女子高生だった。
「ここで写真が撮りたいから授業をサボったみたいだね」
隣でIさんがボソッと呟く。Iさんは相変わらずムスッとした表情をしていた。
街に帰る頃には、彼女たちのFacebookに写真が投稿されていた。相変わらず、よくわからないコメントと一緒に。
三回目に訪れたとき、Kはすでに高校を卒業し、寮からも姿を消していた。僕の来る数日前に、お別れ会があったらしい。NGOの事務所にある在寮生の顔写真リストには、未だ彼女の写真が残っていた。僕の隣では、IさんとMさんが、卒寮生の写真を指差しながら、彼らの話をしていた。
「Kはもう事実婚ですよね」
「そうですねぇ。事実婚ですね」
子を授かる
次の年は、コロナに見舞われて、私はおろか、Mさんもタイに渡航できない日々が続いた。やたらと煩雑な手続きと、十四日間の隔離ののち、Mさんがようやくチェンライに戻れたとき、私は勝手に胸を撫で下ろしていた。
コロナ禍とはいえ、仲良くなった寮生の様子は、頻繁に更新される彼らのFacebookで随時知ることができた。そのほとんどが彼ら自身の写真であることは言うに及ばない。
Kは例外的だった。コテコテに加工した自撮りに代わり、彼女のFacebookは、タイ語を一、二年学んだだけの自分にも分かるような愚痴と文句の言葉で埋め尽くされていた。
「生活ってなんでこんなにつまらないんだろう」
「結局こっちのことなんてわかろうとしてくれない」
「もうだるい」
「飽きた」
「疲れた」
「嘘つき!」
私はすぐにKの「夫」に話を結びつけた。
「十代の恋が長続きするはずがない」
自身の実体験から、この文句に私はこの上なく同意する。口先で「愛している」なんて言ったところで、結局は自分のことしか考えていないのが常だと思っていた。いくら「事実婚」といえ、そこの本質には変わりがないとも思っていた。ただ、KがFacebookであからさまな愚痴を晒すことには違和感を覚えた。二年間見たことのない様子だったし、何より私の中にいる「K」が一番やりそうのないことに思えていた。
なぜか私はKと話がしたい衝動にかられていた。彼女とはタイ語で話したことがあまりなかった。短いタイ語で、私はチャットを打ち込んだ。
–久しぶり。大丈夫?–
すぐに返信があった。
–久しぶり。うん、大丈夫。ありがとう–
–またこっちに来ることはある?–
彼女とタイ語で話すのはどこか新鮮だった。
–来年、タイのC大学に留学するんだ–
–その時にまた村に行きたいな–
すぐに既読が付き、すぐに返信がくる。
–いいね。いつでも泊まってね–
私は懐かしい山の風景に思いを馳せた。
数日後、私はKの出産を知った。もちろん、彼女のFacebookからだ。安らかに眠る子どもの写真が何枚も投稿されていた。しかし、一緒に投稿された数行のタイ語の中に、あからさまに出産の事実を伝えるものはなかった。
私はコメント欄を見た。スクロールすると、雪崩のようにコメントが表示される。「あなたの子?」「(スタンプで)イエス!」
「男の子? 女の子?」「女の子!」
コメントを読みながら、私は右手の親指と人差し指を無言で折り曲げた。
私はようやく彼女の愚痴の意味を知ることができた。
彼女は自分自身の写真も投稿していた。随分久しぶりだ。ふわっと緩やかな服を着て、こちらを見ている。ふくよかだった頬は、かなり削げている印象だった。艶のあった長い髪も、輝きを失い、もうストレートではなかった。その代わり、少し大人になった印象を覚えた。私と一歳しか変わらないはずなのに、彼女の方が五年は先に行っているような雰囲気だった。
Facebookを閉じた瞬間、彼女が村で一人子どもを育てる姿が私の脳裏を走った。それは、二年前、村で弟妹たちの面倒を見ていた彼女と似ても似つかなかった。その画には、重たい雰囲気が漂っていた。
勝手な想像だ。私はもう一度スマホを開いた。どんな事情があるにせよ、彼女は僕が一生経験することのない痛みを乗り越えて、今一女児の母になったのだ。素直にそれを祝福したい。自分が初めてお世話になった山岳少数民族の女性に子どもができたのだ。
私は彼女にお祝いのメッセージを短く送った。彼女の返信は早かった。数日前と同じような会話が続いた。
十九歳で母になるということ
春。私の気持ちは塞がっていた。読みたくて買った本、やらなくてはいけないタスク、友人からのメッセージ。何をするにも力が出なかった。週四日入っていた学習支援のアルバイトは楽しかった。子どもたちはいつでも、自分の心の救いだった。先生も子どもも、お互い欠けたところのあるものどうし、認め合い、前向きになれる気がした。と言うのは建前で、その時の自分は、どこか勉強をサボりたい教え子たちと傷の舐め合いをしていたのかもしれない。毎日が暑い雲に覆われていた。
私はKのことを考えた。彼女は元気だろうか。Facebookには、相変わらず愚痴か赤ちゃんの写真が投稿されている。
生計、就学、選択肢。山岳少数民族の生活は、あらゆる面において以前よりはるかに向上した。Mさんはよくそんな話をする。Mさんの瞳には、その「以前」が名残惜しいとでもいうような表情がいつも宿っている。確かに、他の民族の村は新しい家屋が多く、電線も通っている。道も綺麗にならされ、舗装されている。あちこちにゲストハウスが立ち、住民たちは明瞭なタイ語で話しかけてくる。
二年前に私が案内してもらったラフの村は、どこも似たり寄ったりだった。アクセスが悪い山や森の奥の奥に、高床式の家屋を建て、細々と農業を営んでいる。ボソボソとした言葉(タイの友人はラフの言葉を「韓国語みたいな響きだ」と言っていた)で話す村人は、あまり笑わない。
「閉鎖的な民族性もあるのかもしれません。ラフの言葉にはネガティブな表現が多いと言われているんです」
目を閉じながらそう語るMさんが思い出された。
Kはそろそろ二十歳になる。私はそろそろ二十一歳になる。私は手元に赤ちゃんを想像した。二歳になる赤ちゃんを自分が抱いていることを想像した。そして、村で彼女が一人、子育てをするところを想像した。
KのFacebookを振り返ってみると、妊娠中にこんな投稿がされていた。
「今はどこにも行きたくても動けない。でも今日一日を生きるにもお金が必要。どうしたことやら」
子どもを出産して、Kは本当に幸せだったのだろうか。
Mさんの話から想像すれば、高校を卒業する前に彼女は「事実婚」をしている。卒業後、村へ帰り、やがて出産する。その子どもはラフの村で育ち、山の上の小学校へ進学するだろう。近所の支えもあるとはいえ、それまでKは母親として一人で子どもを育てていくだろう。学費そのものは無償だとはいえ、進学には現金が必要だ。それをKは一人で稼いでいかなければならないだろう。
何も知らない人間の勝手な想像だけで、彼女が幸せだの不幸せだのと決めつけることはできない。ただ、もしかしたらまた違う未来もあったのではないだろうか。
ある程度の山岳少数民族にとって、山の村と平地のタイ社会を行き来しながら生活することは、ごくふつうのことになっている。山での生活や社会関係を継続しつつ、街に出て仕事をし、街でまた別の人間関係を築く。
タイ北部で目を見張るのは、現地の人の起業指向や職業的自立意識の高さである。街を通ればあらゆるところに自営の露店やコーヒーブランド、有機農業拠点など、現地の人々が自ら起業した足跡をたくさん見ることができる。
確かに過酷で、確かに厳しい環境。その一方で、様々な可能性を秘めているのが、タイ北部山地社会におけるある種の魅力に感じられる。
一方で、私は十九で子どもを産んだ彼女を非難しようとは思わない。Kには子どもを持つ権利がある。子どもを育てることで幸せになる権利がある。「あったかもしれない未来」を想像するよりも、私は彼女が母親になったことを祝福したい。少なくとも、彼女自身が望んだことなのであれば。
グローバル化もパンデミックも、自分たちの暮らしている世界を一夜にして変えてしまうきらいがある。革新的とも破壊的とも言える社会の変化を、私たちは予想することができない。自分たちが下す一つ一つの選択が、将来にどのような影響を及ぼすのか、想像することが難しくなっている。
そのような時代だからこそ、自分自身がいかに生きるのか、問い続けていくことには大きな意味がある。大人にとっても、子どもにとっても。そして時にその営みには、支えてくれる人間が必要だ。
タイの山地社会は確かに豊かになりつつあるのかもしれない。当たり前に学校に通える子どもたちも増えている。しかし、スタート台が整っても、そこから子どもたちが走り続けられるのかは、また別の問題だ。「就学」という最低限の権利を子どもたちが手にした今、彼らがより長期的な視点をもって「いかに生きるか」を考え続けることができるよう、支援する必要があるのではないか。
十九歳で母になる。あの厳しい山で母になる。実の父なき家庭で子どもを育てる。あのG村で、Kはどんな母親になるのだろうか。どんなふうに生きていくのだろうか。Kの子どもは、どんな子に育つのだろうか。明るい未来を期待したい一方で、そこには重たい空気も漂っている。
一方で、自分は親になれるのだろうか。その実現可能性は想像以上に低いかもしれない。実の父になれない分、KやKの子のような、タイの子どもを見守る「父親」のような存在になれないものかと、想像しては幻滅している。
(写真出典)全て筆者撮影(2019年3月)