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拝啓、ニールゲイマンへ


朝言われた「関係ないでしょ」って言葉があまりにも苦しかった。もう私は関係ないのかと思った。言葉だけ受け取ってしまう私の悪いところなのかもと思いながら、トボトボ家を出た。雪が降っていた。引き返そうと思ったけど、いまの私にとっては居場所はなかった。関係ないと言われたけど、私には大アリだった。早く終わるなら帰ってきて一緒にいたいと思ったけど、「めんどくさい」と言われたら流石に凹んでしまう。コーヒーでも買って帰ろうと思ったけど、それもいらない世話かもしれないと思って帰らなかった。戻っても、私は何か言わずにはいられないだろうから、二人して今日1日が無駄にするくらいなら、それ以上は話せなかったから外に出た。ただ図書館についても、「関係ないのか、」という気持ちに囚われて何もできなかったからnoteを更新した。それはそうとしてすごく心が落ち着いた。でもまだ書いている。

私にとっては、自分の気持ちをはなすというのはエネルギーのいることだ。「話していいよ」と言われたのもすごく嬉しかったので、少しづつ肝が小さいながらに話してきたつもりだった。
でもどうやら私の話すと、相手の話すのは違うような気もしてきた。

相手にとって自分が自然といる存在に変わるのは悲しいことではないのだけど、私にとっては寂しいことに変わりない。私は自然の存在ではない。いつも当たり前にいるわけでもない。それは私が選択していることなので、私には一緒にいない選択もできる、そのことがどれだけ恐ろしいことなのか、相手にもそれが同じように当てはまるから怖いと思ってしまうのだけど、その価値観はきっと一生埋まらないのだろう。言葉で伝えるのは、私は得意ではないから余計に。私は黙っていることが互いにとっていいような気もしてきた。

ニール・ゲイマンよ
愛を人質に取られるとは本当にこんなものを指していたのですか。
私はもっとハートフルだと思っていました。言葉だけでなく、私は私という存在を互いの生活に痕跡として残してきたつもりでした。いないと寂しい、だから一緒に居られる時は私は愛しいと思える時間だと考えていました。

でもこれも最近は愛を人質に、ではなく愛を逆手に私は相手を脅迫しているだけな気がしてきました。
私には、やはり一定の距離感は必要なのかもしれないです。
私は愛されている実感を得ることが一番大事と信じて疑っていません。
こんなに誰にも見られないと思えば2000字近く書けるのに、「今日一緒にご飯食べない?」を打つのに2時間以上もかかっています。あわよくば連絡が来たりしないかな、とか。

大切だと思っているのに、私はなんでうまく言葉を伝えられず、無機物に向かってでしか自分の気持ちを綴れないのか。
わかって欲しいという気持ちが、自我の拡張の気がしてならなくて、私はやはり人と付き合ってはいけない、誰にも迷惑をかけず、な一生を終える方が向いているような気もしています。

浮かれていたのか、好きになり過ぎていたのか、どこで一線を引けば幸せな関係のままでいられたのかわかりません。家族なろうとするということは、なんでもいいよじゃなかったのか思ってしまい、それ以上の気持ちの整理がつきません。私はやっぱり向いていないのかも。
愛を人質とはどういうものなのでしょうか。





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