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書くことの力を信じろ
『9人の翻訳家』という内容も結末も大して面白くないが、本を愛するものなら一度聞けば忘れない言葉を残した素晴らしい映画がある。
文学の力を信じよ
これだけで3日くらいは生きる正気を保っていられそうだ。
むしろこの言葉に感動さえ覚えない人間は皮肉なしに本当に幸福な人生を送ってきたのだと思う。私はそれを心底羨ましいと思う。
好きな作家は誰ですか?
と聞かれたら私はいつも迷ってしまう。
坂口安吾も、太宰治も、サリンジャーも、クンデラも、イアンリードも、ガルシア・マルケスも好きだ。ガルシア・マルケスは長いけど、『コレラ時代の愛』って本にでてくる、「愛のために貞操を捧げた」みたいな52年愛し合って、70歳を過ぎて初めてセックスをする話だったと思うけど、それよりこのよくわからん一文を私は忘れられず、いつも引き出せるような頭の片隅に置いてある。
また、彼らは学者だけど、私にとっては文学者であるニーチェ、シオランは私の人生の恩人といっても過言ではない。
大学3~4年生の時に、ニヒリズムに手を出し、読むのが辛いのに理解できてしまい図書室で泣いていた。
医学書は1~3階にあるのに、文学系の書物は光の当たらない地下3層だった。医系に誇りのある大学だったから文系学部が蔑ろにされているのが伝わってきて、それさえも浅ましくて好きだった。それでもなお、小心者な私が、あのとき薄暗く埃臭い部屋を出向き徘徊していたのも、今の私には手に入らない幸福で孤独な大学生活だった。どんなに望んでも、もう手に入らないだろう。
なぜ本が好きか?私は書くことが好きだ。読むより断然書くことが好きだ。
書くために、読んでいる。自分と似ても似つかない現実では決して交わることのない偉大な文学者達との時間を本が繋ぐから、それを読み、自分の考えを書く。
私の「考える」は今まさにこの時間だ。
時間を考えず、ただキーボードに指が走るこの時間が私にとっては「思考」の時間だと思っている。
後悔があるとすれば、生まれたことの次に、悔むとするならば、大学院に行くべきだった。私の教育面に一切関心のない初めて母親に反対されたから行かなかった。いつまでも学費で親を縛るのも違うなと確かに納得したからだった。
だけど私の居場所はあそこだったのかもしれない。
光も当たらない薄暗い部屋で、よくわからないことを考えるのが好きだった。誰にも奪われない時間だった。
研究者だって成果を求められる。だけどそれは知識を売りに利益を得ているわけでもない。できないからダメなわけでもない。ただひたすらに無知な自分と苦しむ時間である。
生きていて辛いことの方が多い。
誰といても人は結局一人なのがわかっているからである。
慰める時間が何かと言われれば、私は結局こうした空間にしか存在できないような気がする。
人と居ても、結局は他人であるし、他人というのは境界である。区切りがある以上、肌が触れ合っていたとしても、結局は同一化できない塊同士である。
でも文章というのは、存在しているようで実在はしていないにもかかわらず、人間以上の安心感がある。それはむしろ境界をもたないものなのかもしれない。だからこそ、最後に何も残らなくても、私にはこれがあると思わせてくれるパワーがある。嘘もつかない。気持ちの探り合いもない。私が感じたままの、それでいてくれる。都合がいいから好きなのかもしれない。都合が良いものでないと私は何も愛せないのかもしれない。
人間とは罪深い生き物だ。
こうやって然もそれらしきことを言葉を吐き、自分にも嘘をつく。
私はここ一年でとんでもなく嘘つきに成り果てた。
それは文章をまる一年書けなかった、いや書かなかったから。
だからこうして私は書いてみる。
自分の気持ちも装飾された言葉もすべて、嘘のような本当の私だ。
書くことで生きている。生きている実感がここにはある。
すべてが失われたとしても、私が書いた文章に私が救われる。
その活力を私は信じるしかない。個人的宗教の果てのような気がする。