第11回 「THE BLUE HEARTS - 1001のバイオリン」の思ひ出
『腐女子のつづ井さん』という漫画に、以下のようなやり取りがある。
2006年、おれは中学2年に進級したが、やはり一向に音楽に目覚める気配はなかった。相変わらず、おれの音楽に対する意識は、唾棄すべきブルジョワジーの堕落した趣味という偏見にまみれており、ギターとベースの区別さえつかない体たらくであった。
腐女子たちにとって「オタクへの目覚め≒自我の芽生え」であるように、おれにとっては「音楽への目覚め≒自我の芽生え」であったので、音楽に未だ目覚めていないこの時期の記憶は、すっかり欠落してしまっている。なにが楽しくて生きていたのか、なにを考えて生きていたのか、本当に思い出すことができない……。
それでも、この時期の破損したハードディスクをサルヴェージしてみると、おれの思考に多大な影響を与え、自我の芽生えを準備した楽曲が少数ながら存在することが確認された。その一つが、前回論じたサンボマスターの「世界はそれを愛と呼ぶんだぜ」であった。
また、2006年に「アサヒ ワンダ100年BLACK」のCMに採用されたTHE BLUE HEARTSの「1001のバイオリン」なども、その一つである。
「は? 1001ってなに? 1000のバイオリンじゃないの?」
と思ったそこのアナタ。
甘いッ!!!!!
貴様はブルーハーツ検定3級だッ!!!!!
「1001のバイオリン」とは、要するに「1000のバイオリン」のオーケストラ・ヴァージョンである。おわり。
おれは初めてこの曲をCMで聴いたとき、こんなに素晴らしい歌詞がこの世に存在するのかと、いたく感動してしまった。
上記はたった4行、たった53文字の言葉に過ぎないが、良い歌詞というのはリテラルな意味以上の豊富な情報を含むものである。中学2年のおれは、文学や詩についてもブルジョワ趣味として軽蔑していたので、詩に対する感受性は皆無であったが、それでもだいたい以下のようなメッセージを勝手に受け取った。
「良い大学」に行って、「良い企業」に就職して、「良い家庭」を築いて、「良い老後」を送って、それが一体なんだというのだ? そんなものがお前の望んでいた「幸福」なのか?
キョロキョロと世間や周囲の目を気にして、集団から浮かないようにキャラを演じながら、「友達ごっこ」や「仲間ごっこ」で不安を紛らわせる……そんなことをしていてお前は楽しいのか?
禁欲的な道徳で他者を断罪し、レールから外れる生き方を嘲笑するアンタら。それはただのルサンチマンではないのか? そんなに羨ましいなら自分もやりゃあいいじゃねえか。
逆に、おれは自由な生き方をしていると思い込んでいるアンタら。それは不安から逃れるために嗜癖に淫しているだけじゃないのか? それは飾り立てられた偽りの夢ではないのか? それは本当に自由と言えるのか?
お前はなにが好きなんだ? お前にとって幸福とはなんだ? お前は一度きりしかないこの人生をどう生きたいんだ?
え、おれはどうかって? おれには両手じゃ抱えきれない夢がある。あれも欲しい、これも欲しい、あれもしたい、これもしたい。ヒマラヤ級に楽しいことを、まるで消しゴムを扱うようにやってやるのだ。ミサイル級の面白いことも、まるでペンを操るかの如くやってのけるのだ。そのためには、絶対に言い訳なんかはしない。おれは一度きりしかないこの人生を、精一杯に楽しんでやるのだ。
……多分におれの主観が紛れ込んでいるが、まあだいたいこのようなことを歌っているのだろうと、中学2年のおれは解釈した。
しかし、おれ自身は決してこのような生き方をしている人間ではない。引きこもり体質で行動力がまるでないため、活動的なことはほとんどできていないし、人生の無意味さを思うたびに、虚無的な気分に陥ってしまう。だからこそ、
「おれは楽しく生きる! 以上!」
という力強い生き方ができる稀有な存在に、昔から憧れを抱いてしまうのだ。
この曲を聴いていると、人生の虚無について妻に語ったときのことを思い出す。
「実は……人生には意味がないのだよッ!!!」
「うーん、でも人生の意味って自分で見つけるものでしょう。わたしには夢があるし、やりたいこともたくさんある。人生に絶対的な意味がなかったとして、だからなに? って感じかな」
「チ、チミは虚無に陥らないのかねッ!?」
「わたしはずっと夢に向かって努力しながら生きてきて、今までの人生に満足しているし、大切な友人たちと遊ぶのは楽しいし、毎日が幸せだよ」
ううむ、「1001のバイオリン」の生き方を実践している人間が、こんなに身近にいたとは……。
だからこそ、おれは妻に憧れ続けることができるのだなァと、思いましたとさ。
おわり