見出し画像

第18回 「ザ・クロマニヨンズ - タリホー」の思ひ出

「なんや、もう新しいバンド始めたんかいな」
「なに、古い人なん?」
「せや、こないだまでハイロウズっちゅうバンドをやっとったんや。バナナを食ってえ~ゴゴッゴ~♪」
「ほええ」

 2006年10月20日のことである。いつも通り「ドラえもん」⇒「クレヨンしんちゃん」⇒「Mステ」の黄金コンボをキメていたら、ひょろっとした細長い男と、頭にバンダナを巻いた男がテレビに現れた。おとん曰く、彼らはこれが三つ目のバンドであり、かなりのベテランであるらしい。

 さっそく演奏が始まった。「タリホー」という曲である。

わいタリホー さめタリホー
氷もほっときゃ 流れるぜ

 なるほど。

 なんていい歌詞なんだ😭😭😭

 THE BLUE HEARTSについては、すでに第4回と第11回で取り上げているが、

 読んでお分かりの通り、これらの曲は「ビン・ラディンの空耳の歌」「なんか良い感じのCMソング」として記憶するのみで、THE BLUE HEARTSという存在自体は認知していなかった。それが今テレビでイカした曲を演奏しているザ・クロマニヨンズの前身バンドであったと知るのは、まだまだ先の話であり、よって「甲本ヒロト」「真島昌利」という存在と邂逅したのは、実質的にこれが初めてとなる。

 さて、なぜこの曲がおれの琴線に触れたかというと、そこに「諸行無常」のようなものを感じたからだろう。氷もいずれは溶け、海へと流れてゆくように、この世に不変のものなど存在しない。心の傷もいずれは癒えてゆくし、逆に、幸せな瞬間も永遠には続かない。しかし、それらの記憶は消え去ってしまうわけではなく、己のアイデンティティーを形成する人生の一部分として蓄積されてゆき、私という存在は「自分」のままその姿かたちを変えてゆく……

 このような人生観は、5枚目のシングル「スピードとナイフ」でより直接的に主題化されることとなる。

心を切るナイフ ためらい知らぬナイフ
ひとふりひと太刀で 別々の傷をつけた
変わらないものなんか 何ひとつないけど
変わるスピードが 違ったんだなあ

 ただ、これだけでは「よくある人生訓」でしかないだろう。彼らの存在の特異性は、諸行無常というテーゼそれ自体ではなく、そのような厳然たる宇宙法則を前にして如何にして生きるかというアティチュードにこそ求められる。彼らは、まったく過去を振り返らないというわけでもないし、まったく感傷に浸らないというわけでもない。それでも、過去は過去なのである。過ぎ去った時間のすべては、一分一秒に至るまで無意味な瞬間はなく、現在の自分へと接続しているという一点において、燦然たる輝きを放っている。考えるべきは、己の人生の一切合切を受容したうえで、すべては流されるままに、ただ今この瞬間を愉悦することだけだ。ロック・バンドを続けるのは、不特定多数からの承認を得たいからではなく、そこに自足的な満足があるからだ。歌詞になにか特定のメッセージを込めたりもしない。彼らの存在そのものがメッセージなのである。

 「1001のバイオリン」を聴いたときにも、おれは似たような感慨を抱いたが、13年の時を隔てても同じような印象を与える曲を作り続けているという事実に、彼らの「不変性」が示されている。変わらないものはなにひとつないが、それでも変わらない「三つ子の魂」のようなものも確かにある。彼らが40年近くも、あらゆる世代からリスペクトを受けているのは、そのような「不変性」が人々に不動の参照点を提供し続けているからであろう。

 ところでまったく話は変わるが、今年の3月に、若いシューゲイズのリスナーがMy Bloody Valentineを「再発見」したという「ネタツイ」が炎上するということがあった。

「シューゲイザーを聴いていてマイブラも知らないのか!」
「いや、むしろ素敵な辿り着きかたじゃないか!」

 と、音楽語りがしたくてたまらないおじさんたちが見事に釣られて、勝手に盛り上がっていたが、ブルーハーツもハイロウズも知らずにクロマニヨンズを聴いていた当時のおれは、この「ネタツイ」と同じような状態にあったと言えるだろう。

「ブルーハーツっていうすごくいいバンドを見つけた! クロマニヨンズみたいでカッコいい!」

 と、当時の2ちゃんねるに書き込んでも、釣り針が大きすぎて流石に釣られる人はいなかっただろうが、2024年のツイッターに書き込めば、一人くらいは釣れる人がいるかもしれない。

 おわり

いいなと思ったら応援しよう!