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第17回 「平井堅 - 哀歌 (エレジー)」の思ひ出

 プルルルル……

 ガチャッ

「もしもし、山根さんのお宅でしょうか?」
「はい、そうです」
「あのですね、お子さんがですね、風邪を引いてしまったみたいでして」
「あらまあ、またですか……」
「今、保健室で寝ているので、お手数ですが迎えに来ていただけないでしょうか」
「ホントすみませんねえ。すぐに向かいます」

 小学生の頃、おれはとても病弱だった。一ヵ月に一度は必ず風邪を引き、学校で体調を崩したときには、いつも母に自転車で迎えに来てもらっていた。

 プルルルル……

 プルルルル……

 死~ん

 とはいえ、専業主婦の母には家事という仕事があり、いつも暇というわけではない。まだ携帯電話が充分に普及していなかった時代である。折り悪く、買い物に出かけているときには、母を捉まえることができず、母が家に帰るまで保健室で待機していなければならなかった。

 ようやく連絡がついても、家族六人分の食料を家に運び終え、さて一息つこうというときに、病気の息子を迎えに行くという予期せぬタスクが発生するわけだから、母からすればたまったものではない。おれが風邪を引くと、心配されるよりも先に、不機嫌な顔をされることのほうが多かった。

「あの、おかん……」
「なあに?」
「なんかダルいから学校休みたいんやけど……」
「またあ? 先月も休んだばっかりでしょ!」
「でも、ダルいし……」
「まったく、もう!」

 この日は、結局のところ肺炎であることが発覚し、大きな病院へ強制入院することになった。朝には不機嫌であった母も、さすがに肺炎で入院とあっては心配なのか、すこぶる優しくしてくれた。検査のため昼食にありつけず、空腹で死にそうになっていたおれに母が差し入れてくれたマクドナルドのフライドポテトは、我が人生の中で最も旨かったフライドポテトであり、今でもあの味は忘れられない。

 会社勤めをしていると「体調管理も仕事のうち」と言われることがあるが、こちとら好きで風邪を引いているわけではない。いくら「体調管理」とやらに気を配ろうが、風邪を引くときは引くのである。そんな当たり前のことすら分からない、生権力を内面化した資本主義の豚どもは、全員いますぐ不治の病におかされてしまえばよいのだ。臨終には「いやあ、体調管理も仕事のうちですよ!」という社会人の心得を贈呈しよう。来世では、しっかりと体調管理に気をつけるように。

 ……話を戻すと、そんなある日、母が次のように宣言した。

「決めたッ!」
「え、なにを?」
「携帯電話を買うッ!」
「ケ、ケータイ?」
「あんた、学校でいつ風邪を引くか分からないでしょ。それで予定を崩されると大変なのよね。でもケータイがあれば、外出していても連絡が取れるでしょ。そしたら買い物帰りにそのまま迎えに行けるし」
「は、はあ……」

 というわけで、おれが小学4年生のとき、我が家に初めて携帯電話が導入された。統計によれば、2002年当時の携帯電話の普及率は60%程度であったらしいが、実感としてはまだまだ目新しいガジェットという認識であった。風が吹けば桶屋が儲かると言うが、風ならぬ風邪を引いたところ、我が家に携帯電話なる最先端のハイテク機器が現れた。

 これが我が家と携帯電話との第三種接近遭遇のあらましであるが、携帯電話といえば、当時はナウでヤングなチャラくさいものであり、小学生が持てるような代物ではなかった。おれ自身が携帯電話を手にすることができたのは、それから4年後、ようやく中学2年になってからのことであった。

 中学2年のナウでヤングな少年が、私的なネットワーク機器を手にしてまずやることといえば、もちろんドスケベなエチエチサイトの回覧であるが、それはまた別の機会に書こう。ドスケベなエチエチサイトを除けば、若者のケータイへの関心ごとの一つとして「着うた」が挙げられるだろう。

 ナウでヤングなZ世代の方々のために説明すると、「着うた」とは、要するに着信があったときに歌が流れるサービスのことである。

「着うたなんざチャラくせえ。男は黙って黒電話だッ!

 と思い、最初は着信音を黒電話に設定していたのだが、次第におれもケータイからイカした音楽を流したいという色目が出てきた。「着うた」は、一曲当たりだいたい200円程度で販売されている有料サービスなので、購入するには親にお伺いを立てなければならない。

「なあ、着うた買ってもいい?」
「ええよええよ」
「一曲で200円くらいすんねんけど」
「かまんかまん」
「よっしゃ!」

 ついにおれのケータイからも「着うた」が流れるぞ、と興奮したおれは、さっそく「レコチョク」の週間ランキングを開き、イカした音楽の物色を開始した。ランキングをスクロールしていくと、ある一つの楽曲が目に留まった。

「あ、これ確かけっこう良い曲だったよな」

ポチッ!

 こうして、平井堅の「哀歌 (エレジー)」が、おれの記念すべき初めての「着うた」となった。

 さっそく、ダウンロードした「哀歌 (エレジー)」を流してみる。

その手で その手で 私を 汚して♪
何度も 何度も 私を壊して♪

 うん。

 失敗したッ!!!

 この曲は『愛の流刑地』という、小説家と人妻の不倫を描いたR15+の映画の主題歌であり、歌詞はこの映画のために書き下ろされ、女性目線のエロティックな内容となっている。おれは十五歳未満の中坊だったので、映画自体は見ていなかったが、映画のトレーラーとともに平井堅が楽曲について語っているのをテレビで見ていたので、だいたいの内容は知っていた。イカした曲をケータイから流すはずが、不倫の歌を流す羽目になってしまった……

 だが、200円という高価な買い物をしたのに、使わないというわけにもいかない。次の「着うた」を購入する機会があるまでは、しかたなく「哀歌 (エレジー)」を着信音に設定することにした。

汗ばむ寂しさを 重ね合わせ♪
眩しくて見えない 闇に落ちてく♪

「今日の晩御飯はカレーよッ!」
「いえーい!」

いつか滅び逝く このカラダならば♪
蝕まれたい あなたの愛で♪

「これから三宮でボウリングするんやけど、けえへんか?」
「よしきた!」

 こうしてしばらくの間、着信があるたびにおれのケータイからは不倫の歌が流れ続けたのであった。

 おわり

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