第12回 「湘南乃風 - 純恋歌」の思ひ出
煉獄杏寿郎の母君は、次のように宣った。
まったくその通りである。自分に才能があるのは、自分だけの手柄ではない。サンデルの言う通り、能力主義は勝者に驕りを、敗者に屈辱と怒りを与えるだけだ。己の才能や幸運の偶然性に思いを巡らすことで、連帯の可能性を探ることこそ肝要である。
では、おれの持つ特別な能力とはなんであろうか。弱き者を助けるため、天より賜った才能とはなんであろうか。
それは歌の才能である。
或る日、小学校へ向かう道中、なんの気なしにアニメの主題歌を口ずさんでみたところ、おれは衝撃的な事実に気づいてしまった。あまりに歌が上手すぎるという事実に。
なんだこの美声は。Mステに出ている歌手なぞより、おれのほうがよほど歌が上手いではないか。おれには歌の才能があったのか……。
さて、才能とは独り占めしてよいものではなく、みなの幸福のために用いなければならないものである。そこでおれは、手始めに次の合唱コンクールでは全力で歌おうと決心した。きっとこれは、歌の才能など欠片もない音痴なクラスメイトどもを優勝に導くため、天が授けてくださった才能なのだ。
これは中学2年生になっても変わらなかった。合唱コンクールの季節が今年も巡り、おれは全身全霊を傾けてクラスの全体練習に励んでいた。すると、隣で歌っていた生徒が声をかけてきた。
「なあ、おまえ……」
なんだ? 我が美声に酔いしれてしまったか? サインをもらうなら今のうちだぞ。
「ぜんぶ音程いっしょやんけwwwww」
……はあ?
「ヘタクソすぎワロリンヌwwwww」
……こいつはなにを言っているのだ? 誰がどう聴いたって完璧な歌唱だったではないか。耳がおかしいのか、こいつは。
そのように抗議しようと思ったが、
「フォカヌポウwwwwwww」
……クラスメイトはツボに入ってしまい、聞く耳持たずといった態。やれやれ、これだから芸術を解する心のない凡人どもは困る。が、ここで憤ってはいけない。あくまで謙虚に、みなのために尽くすのが、才能ある者の務めである。
しかし、不可解な事態は続く。後日、音楽の授業でのことである。ウォームアップにクラスで1曲歌い終えると、女子たち数人が騒ぎ出した。
「え、北野くんめっちゃ歌ウマない!?」
「ほんとほんと! 隣で聴いとったけどすごい美声やった!」
フフフ……そうだろう……って、北野!? 北野って誰だッ! 主人公の名前は山根だッ!
「なあ、先生も聴いてみてや!」
「あ、そうなん? ほな北野くん、ちょっと一人で歌ってみて」
「白い光の中に~♪ 山なみは萌えて~♪」
「きゃー! すごーい!」
「へえ、北野って歌上手かったんだな」
「⁄(⁄ ⁄•⁄ω⁄•⁄ ⁄)⁄」
普段はあまりクラスで目立たない北野くん、今日ばかりは突然ヒーローになってご満悦の様子である。
しかし、おれはひとり不機嫌だった。いや、ぜんぜん上手くないやん。普通やん。おれのほうが100億倍上手いやん。なんでおれに注目せんと北野やねん。みんな耳がおかしいんとちゃうか。これやから愚民どもは困んねん、ホンマ。
なんとかして見返してやれないものかと復讐心を募らせていると、千載一遇のチャンスがやってきた。
「今日は予告してた通り歌のテストするで。ほな、最初は出席番号1番から」
そうだ、今日は歌のテストの日ではないか。音楽的素養に欠けた愚昧な朋輩どもに、我が美声を見せつけてやる絶好の機会ではないか!
「出席番号7番、北野くん」
「遥かな空の果てまでも~♪」
「きゃー! すてきー!」
いい気になっていられるのも今のうちだぜ、北野よ。
「出席番号38番、山根くん」
ぎゃふんと言わせてやるッ!!!
「じろ゛いひがり゛のなああああがにいいぃぃぃいいい゛」
「ちょっと待って! ストップ!」
「えッ!?」
せっかく気持ちよく歌い始めたのに、なぜかストップされてしまった。
「うーん……もう一回やってみよか」
「は、はあ……」
気を取り直して歌い直す。
「や゛まなみ゛はも゛えでえぇぇぇぇええ」
「ストオオォォオオップ!!!」
「……」
「最初の音から全然あってへんやないか! まずこの音出してみぃ!」
教師が人差し指でピアノの白鍵を叩く。
ミ~♪
「ゾォォ~♪」
「違ああァァああうッ!!!」
「……」
「よく聞いてッ! もう一回ッ!」
教師が再びピアノの白鍵を叩く。
ミ~♪
「ジ、痔~♪」
「違ああァァああうッ!!!」
「……」
「あー、時間ないからここまでな。次、出席番号39番!」
「ぎゃふん!」
そんなバナナ……おれの歌唱は完璧だったはず……。釈然としない思いを抱え、教師が評価シートに「C」と書き込むのを横目で見ながら、おれはすごすごと席に戻った。
おれは家に帰ると、己の正しさを証明するため、さっそくピアノの前に立った。「きらきら星」さえまともに弾けないままやめてしまった、ピアノの前に。教師がやっていたのと同じように、白鍵のひとつを押さえてみる。
ミ~♪
「ゾォォ~♪」
うーん、あっていると思うのだが、これは違うのか……?
ミ~♪
「ヴァ~♪」
これも違う……?
ミ~♪
「ミ゛ィィ~♪」
ん?
ミ~~~♪♪♪
「!?」
その瞬間、未だかつて味わったことのない感覚がおれを襲った。ハンマーに打ち叩かれたピアノのE線は毎秒164回の速度で空気を揺らし、その空気が毎秒164回の速度で振動する我が咽喉へ侵入すると、おれの全身は毎秒164回の速度で共鳴し始めた。なんだこの感覚は……これが「音が合う」ということだったのか……
感動に浸っていたのも束の間、おれは重大なことに気づく。あれ、ってことは今までのおれの歌はぜんぶ合ってなかったってこと? 合唱コンクールの練習で同級生に言われた通り、おれはぜんぶ同じ音程で歌ってたってこと? 北野くんは歌が上手くて、おれの歌はC評価で正しかったってこと?
おれは歌が絶望的に下手だった。
/(^o^)\ナンテコッタイ
それ以来、おれは合唱コンクールでは口パクに徹し、歌うことをやめてしまった。己の分をわきまえ、それ相応の振る舞いをするのが才能なき者の務めである……
それは今でも変わらない。音楽ライブに行って、会場が一体となってシンガロングする場面があったとしても、一緒に歌うことはまずない。一見すると熱唱しているように見えるかもしれないが、注意深く見てほしい。そこには全力で口パクをしているおれの姿があるはずだ。
とはいえ、おれには歌の才能がなかったのだと諦めてしまっては、そこで試合終了である。おれの音痴が長年放置されてしまったのは、客観的な視点の欠如が原因であった。そこでおれは、ママンと一緒に歌の特訓をすることにした。
ママンは子どもの頃にピアノを習っていたこともあり、音程にはとても敏感である。若者に絶大な人気を誇るカリスマ歌手がついにMステ初出演! というような場合であっても、
「あら~ぜんぜん音が合ってないわね~」
と容赦なく切って捨てる御仁である。このような御仁であれば、我が歌の師となってくれるはずだ。
「おかんッ! 今からチューリップを歌うから聴いておくれッ!」
「あら、いいわよ~」
「ざい゛だァ~ ざい゛だァ~♪」
「あ、財津さんじゃないのね~」
「ぢゅゥり゛ッぶゥのォはァなァがァ~」
「うーん、ぜんぶ半音ずれてるわね~」
「どのばな゛ァみ゛ィでぇえもォォ゛ぎれい゛だなァァァアア」
「きたない花火ね~」
「……」
「ほんとに歌が下手っぴね~」
「……」
ヒッジョーにキビシ〜ッ! だが、これは自ら選んだ茨の道である……
「でも、ほら、前に歌ってたあれは上手かったわよ」
え、そんな歌あったけ。
「なんだっけ、ほら、あれよ」
もしかして、ス、スピッツか!? ミスチルか!?
「湘南乃風よッ!」
「!?」
「湘南乃風の、あのラップのとこだけは上手かったわよ。ほら、歌ってみなさい!」
「だ、大親友ぅの彼女の連れ~♪」
「あら、上手ね」
「おいしいパスタ作ったおまえ♪」
「上手だわ~」
「あ゛ああいじでぇぇえ゛るぅぅぅのひびぎいぃいだげでえぇぇ」
「ヘタクソね~」
「大貧民♪ 負けてマジ切れ♪」
「ファビュラスマックス!」
「……」
これは歌謡曲世代にありがちなことなのだが、歌に対する評価はやたらと厳しいくせに、ラップに対する評価はすこぶる甘い。速く複雑なリズムを易々と刻んでみせるラッパーたちは、親世代にとっては宇宙人のようなものらしく、ラップをするだけで簡単に褒めてくれる。歌はなかなか褒めてくれないが。
これは大学生になってからも同じで、たまに軽音サークルで歌唱しているライブ映像を見せたりしても、「ふーん」といった感じで、ママンはいつも反応が悪い。ところが、レイジ・アゲンスト・ザ・マシーンなどのコピーバンドでラップしている映像を見せると、
「あら、上手ね~。アンタはこれだけやりなさい!」
と、すぐに褒めてくれるのである。さいですか……。
現在、妻との関係においても同様のことが反復されている。
「きょ、今日のカラオケ、どれがいちばん上手かった!?」
「うーん……最後らへんに歌ってたのがよかったよ」
ス、スピッツか!?
「人間発電所」
「……」
妻はクラシック・ピアノ上がりで絶対音感を持っており、また様々なポップスを聴いて育っているため、母と同様、歌には厳しい。「前より歌が上手になったねぇ、えらいねぇ」と褒めてくれることはあっても、あくまでそれは相対的に上手くなったというだけで、絶対的に感心してもらえるのはラップだけなのである。無念。
もしこれが、音楽にまったく興味のない人間だったのであれば、音痴であっても別に困ることはない。例えばおれは球技が苦手だが、別に球技に興味があるわけではないので、現になにも困っていない。
だが、神よ! あなたはおれが音楽を愛するよう創造されながら、どうして音感を授けてくださらなかったのですか!
他者とハーモニーを奏でる喜びを一度も知ることなく、このまま死ねというのですか!
ならばいっそ、音楽への愛など知らない人間にしてくれればよかったのだ!
音楽の才に恵まれた自己など想像だにしなければ、絶望することなどなかったのに!
嗚呼、神よ。なぜ、沈黙なさっているのですか。お答えください……神よ……
おわり
追記
「純恋歌」で有名なのは、一般的には「パスタ」のくだりだが、この曲の白眉はなんといっても以下のヴァースである。
もし、おれが妻を自分勝手に怒鳴りつけたあと、パチンコ屋に逃げ込んで、景品の化粧品を持って謝りに行ったならば、夫婦関係は修復不可能なものとなること必至である。だが、これが「共感できるエピソード」として成り立ってしまうあたり、まったく生活形式の異なる彼らの「リアル」が感じられ、たいへん素晴らしい。
おわり