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第27回 「銀杏BOYZ - 十七歳(…cutie girls don't love me and punk.)」の思ひ出

めざめ

 あれは確か、小学1年生の冬の出来事だったように思う。次の体育の授業に向けて、我が1年2組の生徒たちは体操服に着替えている最中だった。着替えといっても、体育のある日は体操服を身につけて登校する決まりになっていたので、重ね着している上衣やズボンを脱ぐだけでよく、男女別に更衣室を設ける必要もなかった。だから、今まさにおれの前の席の女生徒がズボンを脱ごうとしている光景も、飲食店で外套を脱ぎ、ハンガーにかけるのと同じようなもので、そこに破廉恥な要素が介在する余地はなかった。いや、ないはずだった。

「……え」

 前の席の女生徒がズボンを脱ぐと、目の前に現れたのは学校指定の紺色の短ズボンではなく、柔らかな丸みとほのかな艶をまとった、初雪のように輝く薄桃色の果実であった。重ね着していたズボンを脱ぎ捨てようとした瞬間、指先がほんのわずかに迷って薄布の縁へと触れてしまい、ズボンとともに内側の小さな秘密までも引きずり下ろしてしまったのであろう。薄布はズボンごと腰の稜線を越えて滑り落ち、ちょうど尻の膨らみが露わになるあたりで止まっていた。
 ……気まずい空気が流れる。一刻も早くこの状況を打開しなければならないが、予期せぬ出来事に脳は凍りついたまま動かない。それでも、なんとか必死に思考を巡らせ、この7年の人生で蓄積した記憶を総動員して解決の糸口を探る。いいぞ……なにかいいアイデアが浮かんできそうだ……おお……これは……埼玉が生んだスーパー5歳児、野原しんのすけの「ケツだけ星人」ではないか。万事休す!
 だが、ここまでの時間わずか零コンマ五秒。電光石火のごとき速さでケツだけ星人の変身を解き、瞬時にして人間としての尊厳を回復した彼女は、まるで何事もなかったかのように、澄ました顔で運動場へと向かっていった。

 この刹那の出来事に、おれは我を忘れ、ただ呆然と立ち尽くしていた。いったい、なにが起こったんだ……? この不運な事故を目撃した者は他におらず、その真相を知っているのは女生徒とおれだけである。しかし、彼女は自らの恥態を誰かに見られていたとは露ほども思っていない素振りだったので、この出来事が恥辱として彼女の記憶に刻まれる可能性は限りなく低い。次第に忘却曲線に沿って減衰していき、あと数日もすれば彼女のメモリーからは完全に消去されてしまうだろう。つまり、この出来事を記憶している人間は地球でただひとり、おれだけということになる。人は孤独に陥ると自らの存在に確信が持てなくなるものだが、記憶もまた、他に証人がいない孤立無援の状態に陥ると、自らの正当性に疑念を抱き始めるようだ。確かにこの目で見たはずの日中の光景は、次第に夕暮れの薄闇に紛れるように曖昧さを増していき、家にたどり着くころには、それが果たして現実だったのか、それとも心が作り出した幻影だったのか、もはや判別がつかなくなっていた。だが、それが現実であろうと改竄された記憶であろうと、男根期の葛藤を経て無意識の奥底に潜伏していた欲望の火種が早くも暗闇の中で再燃し始めたことだけは、揺るぎのない事実であった。

 その日の夜は、布団に身を沈めてからも一向に眠ることができなかった。昼間に目にした彼女の姿は、消えることなく脳裏に焼きついたままで、瞼を閉じるたびに、彼女の腰に実った瑞々しい白桃が繰り返し鮮やかに浮かび上がった。だが、人間と動物を分け隔てるものは、目に見えない虚構をあたかも実体であるかのように思考することのできる、その豊かな想像力である。おれが実際に目にしたのは、無防備に露わとなったふたつの膨らみだけであったが、その残像を起点として、衣服に覆われた未踏の領域は想像の力によって満たされてゆき、やがて一糸も纏わぬ彼女のあられもない姿が、次第に心の中で形作られていった。

 さて、人間が性に目覚めるのは、一般的に二次性徴の兆しが現れる頃であるが、かといって潜伏期にある男児が性的なものにまったく触れないということはないし、またそれに対してまったく無感動であるということもない。「コロコロコミック」のような児童向け雑誌であっても、女体を欲望の対象として消費することを主眼とした「お色気担当」の漫画が必ず掲載されており、男児たちはそこから女性をどのように眼差すべきかを学んでいく。女性が隠すべきと感じ、また男性が覗き見たいと欲望する恥ずかしい部位は、まずもって「おっぱい」と「パンツ」であることが強調される。いくら年端のいかない男児であっても、それらが破廉恥の象徴とされることくらいは感覚的に理解しているし、まだ成長過程にある未成熟な体の中で、下腹部の小さなつぼみがその刺激に反応し、時には可愛らしい膨らみを見せることもある。だが、女生徒の想像上の裸体を前にして、おれの意識は薄布を剥ぎ取られて露わとなった秘境の渓谷へと集中していった。なぜ「おっぱい」や「パンツ」ではなく、その部分に心が惹きつけられるのかは、自分でもよく分からなかった。男性の股ぐらから男性器を取り去ったもの、それがすなわち女性器なのだから、そこには細やかな裂け目と尿を排出するための通路があるばかりで、それ以外にはなにも「ない」はずである。だが、世間の人々が決して触れようとしないその秘められた領域にこそ、おれの奥底に潜むリビドーが探し求めている、隠された女体の神秘が「ある」のだと予感された。

 その翌日、おれは女生徒たちをまともに見ることができなくなっていた。つい昨日までは、小学1年生の男児らしく、女など相手にする必要のない軟弱な生き物だと思っていたが、その見方は一変していた。彼女たちの表情はあどけなく、まるで天使のように無邪気に笑っているが、その衣服の下には、ひとり残らず淫らな裸体が隠されているのだと想像すると、目を逸らさずにはいられなかった。もはや、彼女たちは軽んじるべき存在ではなく、おれと同じひとりの人間であると同時に、どうにかして近づきたいという欲望を掻き立てられる、憧れの対象となっていた。そして、彼女たちを背徳的な視線で追い、心の内を淫らな妄想で塗り固めている己自身に気づくと、おれはなんて醜くいやらしい人間になってしまったのだろうと、深い自己嫌悪に囚われずにはいられなかった。

 ……ん?

 なんだこれ? ブンガク?

 いや、違う

 これはチューリング・テストですッ!!!

 「わあ、山根くんって文学的な文章も書けるんだね!」と思ったそこのアナタ!




 はい、残念ッ!!!!!

 アナタは生成AI時代を生き残れずに死にますッ!!!

 「なにこれ、ChatGPTにでも書かせてんのか?」と思ったそこのアナタ!




 正解ッ!!!!!

 アナタは人間とロボットを見分けることのできる素晴らしい審美眼の持ち主ですッ!!!

 「おれが性に目覚めたのはわずか7歳のときで、それは同級生のお尻を不可抗力で見てしまったことが原因だった」という一文で済む話を、ChatGPTを活用しながらネチネチとこねくり回していたわけですな。まあ、文学なんて要約するとこんなものである。物語をブクブクと太らせることで生じる、本筋になんら影響を与えることのない余分な贅肉こそが、むしろ文学の本体なんだなあ。

 やまを

ブロック崩し

 さて、小学1年生にして性に目覚めたおれであったが、同級生の女子にちょっかいをかけるとか、同級生の男子たちとエロ本の鑑賞会をするとか、そうした具体的な行動に性欲が反映されることはなかった。性に目覚めるのが早かったといっても、ただ女性の裸体を想像しては顔を赤らめるばかりで、性的な知識とはまるで無縁なまま成長したので、小学5年生になる頃には、むしろ同級生と比べても性的にナイーヴな少年になっていた。
 そんな小学5年生の、或る日曜日の出来事である。その日はWOWOWで映画『ジュマンジ』が放映されていたので、家族そろってリビングに集まり、魔法のボードゲームが繰り広げる大活劇に夢中になっていた。

 ただし、おれひとりを除いて。だって、『ジュマンジ』なんて10回くらい見て飽きちゃったんだもん! おれにはもっと他にやりたいことがあるんだ!

馬鹿かと(魚拓)

 家族がリビングで『ジュマンジ』を楽しんでいる中、おれは隣の部屋で父親のWindows XPを起動し、「おもしろフラッシュ」を集めた「馬鹿かと」というウェブ・ページを開いた。Z世代以降のヤングのために説明すると、かつて「Flash」というアプリケーションを駆使して作られた「フラッシュ動画」が、インターネット上で大流行していた時代があった。iPhoneやYouTubeが登場する数年前のことであり、そのときはまだ「収益化」という発想をする者は少なかったので、この「フラッシュ動画」のムーブメントは営利目的とは縁がなく、純粋な遊び心と表現欲求によって支えられていた。既存の著作物から素材を自由に切り貼りし、再構成するその手法は、1970年代のヒップホップ黎明期と通底するものがあり、そこには純粋で無邪気な享楽だけがあった。それこそ「地上波では放送できない」と形容するにふさわしい、著作権を無視した不謹慎なコンテンツばかりであり、パソコンに触れたことのない同級生もいる中でこのアンダーグラウンドな世界を知っていることは、おれに密やかな優越感をもたらしてくれた。

 さて、なにかやったことのないゲームでもプレイしてみようかとウェブ・ページをスクロールしていると、「ブロック崩しです」というタイトルが目についた。ブロック?……を崩す?……よく分からないが、案ずるより産むが易し! クリックあるのみ!

爆裂ブロック崩し

 あれ? ブロックは?

 なんか女児向けのキモい絵があるだけなんだけど……

 ゲームのルールがよく分からないが、とりあえず画面上でマウスをクリックしてみると、バーの上に置かれたボールが勢いよく放たれた。ボールは画面の縁や中央に描かれた少女の絵にぶつかるたびに跳ね返り、戻って来たボールが再びバーに触れると、また上方へと弾き出されていった。えーと、このボールを落とさないようにバーを動かせばいいのか? なんだこのクソゲーは……と思っていると、やがて画面に少しずつ変化が現れ始めた。

 こ……

 これは…(`・⊝・´;) ゴクリ……

 エッチなゲームだッ!!!!!

 ヤバい、こんな破廉恥なゲームをプレイしているなんて家族に知れたら一巻の終わりだ……早くウィンドウを閉じなければ……そう思いながらも、半裸の少女が映る画面に視線は釘づけになり、まるで見えない誰かに操られているように、おれの手は落ちてくるボールを跳ね返し続けた。

「今年は何年なんだい?」
「1995年よ、忘れた?」
「95年……?」
「身分証明は? そうか、ターザンが身分証明持ってるわけがないな」

 他の家族の様子を探るため耳をそばだててみると、映画はロビン・ウィリアムズがボードゲーム内のジャングルから帰還した場面のようだった。つまり、上映時間はまだ1時間近く残っている。このまま映画に集中している限りは、この部屋に誰かがやって来る心配はなさそうだ。

 ということは……

 ( ≖͈́ ·̫̮ ≖͈̀ )ニヤァ

 („ಡωಡ„)フホホッ

 ( ͡° ͜ʖ ͡° )わーお

 結局、最後までプレイしてしまった……おれはなんて破廉恥で醜い人間なんだ……と自己嫌悪に陥っていると、ブラウザの画面が読み込みを開始し、次のページへと切り替わった。

※うろ覚えで作成。Flashのサポート終了のためオリジナルのゲームは現在プレイできない

 ステージ2……だと……?

 これ以上なにを崩せというのだろう……?

 ( ͡° ͜ʖ ͡° )ボクニハワカリマセン

 ( ͡° ͜ʖ ͡° )ほうほう

 ( ͡° ͜ʖ ͡° )そこが崩れていくのね

 ( ͡° ͜ʖ ͡° )おお……

 ( ͡° ͜ʖ ͡° )わーお

 彼女の胸元を覆っていた布が消え去ると、片腕で乳房を隠しながら恥じらう少女の絵が浮かび上がり、「CLEAR」という文字が表示された。さて、ゲーム自体はこれで終了したわけだが、おれの股間の昂りは破裂せんばかりに怒張したままであり、最終的な解放を得るためには、こちらもどうにかしてフィニッシュさせてやらなければならなかった。これが成熟した大人であれば、リビングからちょっとティッシュを拝借して……といった最終的な解放に向けた行動が開始されるわけだが、おれはまだなにも知らない小学5年生の小僧に過ぎなかった。「射精」という生理現象があること自体は保健の授業で耳にしていたものの、その具体的な過程についてはまったく知らなかったし、そもそも、それが昂った性欲を鎮めるための行為であるという認識も持ち合わせていなかった。ゲームが終わっても、ただ淫らな気分が増幅し続けていくばかりでどうすることもできなかったおれは、インターネット・エクスプローラーの検索窓に「ブロック崩し 脱衣」と打ち込み、自らの欲望の新たな犠牲となる少女を探すべく、ネットの広大な海へと漕ぎ出した。こんな最低な人間は、早く死んでしまったほうがいいと思いながら。

精通

大辞泉|小学館

 突然ですが、ここでクイズです

 これはなんでしょう?

 正解は……



 エロ本ですッ!!!!!

 人間は成長するにつれ、次第に感覚が鈍磨していくものである。フェラチオ、クンニリングス、緊縛、3P、乱交、コスプレ……美女がありとあらゆる恥態を演じる無修正のアダルトビデオを見ても、もはや心を動かされるものはなにもない。「あー、今日はこれで抜くかー」などと思いながら、まるで小便や大便を排泄するのと同じように、日々のルーティンの中で作業的に精子を排泄するようになってしまう。だが、思い出してほしい。我々はもともと、そのような虚無の存在ではなかった。ちょっとエッチな言葉を目にしただけでも、顔を真っ赤にしてドキドキしてしまうような、そんな無垢で純粋な子ども時代がかつて我々にも存在していたのだ。そうした視座に立ち返って、もういちど事典を眺めてみよう。これは単なる言葉の意味を索引するための道具だろうか? 否! 事典とは、無数のエッチなワードが詰め込まれた一級のエロ本なのである!

 日本語は同音異義語が豊富なため、ある言葉の意味を調べようとすれば、同じ発音を持つ無数の単語に遭遇することになる。例えば、中学の理科で習う「篩管」という言葉の意味を知ろうと思えば、「しかん」の森の中へと足を踏み入れなければならない。その森には、「士官」「弛緩」「史観」「視感」といった様々な木々が生い茂っており、さらにその奥には、次のような淫靡な木が密やかに佇んでいる。

し‐かん【×屍×姦】
死体を相手にして性交すること。

goo辞書

 (,,•﹏•,,)これは……

 (,,•﹏•,,)ドキドキ

 社会科で習う「朱印船」について調べれば……

しゅ‐いん【手淫】
手などで自分の性器を刺激して性的快感を得る行為。自慰。自涜 (じとく) 。マスターベーション。オナニー。

goo辞書

 (,,•﹏•,,)ドキドキ

 こうした偶発的な事故を繰り返すうちに、おれは大辞泉を「家族の前でも堂々と読むことのできるエロ本」として扱うようになっていった。

「あら、うちの子は辞書なんか読んじゃって賢いのね~」

 と母親は思っていたかもしれないが、おれは勉強をしていたのではなく、エロ本を読んでいたのである。このように、おれには言葉に秘められたエロティシズムに対する感受性があったため、おれの欲望を掻き立てたのは、エロフラッシュのような視覚的コンテンツだけではなかった。或る日、いつものように父親のパソコンで新たなエロフラッシュを探していたおれは、気づけば「ハイヒールの小部屋」という名のサイトにたどり着いていた。

ハイヒールの小部屋(魚拓)

 うーん 

 18才以上だよーん(^o^)

 「はい」をクリックして入室してみると、どうやらここは一般人のエロティックな体験談を掲載しているサイトのようだった。しばらくスクロールしていると、くみちんさんの「312.最悪の体育授業,全裸でプールに・・・」というタイトルが目に留まった。

 全裸でプール……だと……?

 け、けしからんッ!

 ど、どれほどけしからんか確かめなくちゃな……

ハイヒールの小部屋(312) 最悪の体育授業,全裸でプールに・・・
(※Safari, Internet Explorerで閲覧可能)

 ここには次のような体験談が記されていた。泳ぎが苦手だったくみちんさんは、女子校に通っていたとき、よく生理を理由にして市営プールでの体育の授業をサボることがあった。だが或る日、教師に嘘がばれてしまい、サボらず泳ぐように言われる。今日は水着を持ってきていないと説明すると、では罰として全裸で泳ぎなさい、さもなくば単位を与えず留年にするぞと脅されてしまう。仕方なく全裸でプールサイドへ行き、恥ずかしさで死にそうになっていると、見せしめとしてみんなの前でラジオ体操をさせられることになった。そのとき「おー?!」という男性たちの歓声が聞こえてくる。なんと、今日は男子校の生徒と共同でプールを利用する日だったのだ。それでも教師は許してくれず、結局のところ男子生徒たちの前でラジオ体操をさせられてしまう。だが、恥辱はそれで終わらなかった。飛び込み台の上で前かがみにさせられたときには、後ろに並んでいる男子生徒たちに膣や肛門を覗き見られてしまった。プールを泳いでいるときには、どさくさに紛れて隣のレーンの男子生徒たちに胸や尻を触られてしまった。すべてが終わっても、教師はよい見せしめとしか思っておらず、くみちんさんは悲しさと恥ずかしさで泣きじゃくるしかなかった……

 改めて読んでみると、他愛のない体験談風のエロSS(ショート・ストーリー)でしかないのだが、おれは人を疑うということを知らない純朴な少年だったので、この体験談を真実だと思い込み、くみちんさんを辱めた教師や生徒たちに心の底から憤った。だが、どうやら理性と情欲は別物であるらしい。心の中では「なんて酷いことをするんだ!」と激しく反発し、「許せない!」と思いながらも、おれの身体は真逆の反応を示していた。

 ああ、可哀想なくみちんさん……くみちんさんの悲しみをもっと分かってやらなければ……

 と己に言い聞かせながら、「313.新人OL,お花見の無惨・・・」というタイトルをクリックする。

ハイヒールの小部屋(313) 新人OL,お花見の無惨・・・

 こちらは、上司に弱みを握られてしまったくみちんさんが、新年会の花見で野球拳を強要され、敗北して衣服を剥かれたあとに、全裸で輪姦されるという話だった。「陰唇」「クリトリス」などの耳慣れない言葉が出ててくるが、こういうときは「エロ本」の出番である。

いん‐かく【陰核】
女性の外陰部、小陰唇の前部にある小突起。陰梃 (いんてい) 。クリトリス。

goo辞書

 なるほど

 よく分からん\(^o^)/

 おれは勉強ができる子どもだったので、中学の保健体育の試験ではいつもクラスで一番の成績を取っていたが、それでもまだ、女性の股間には尿道しか存在しないと思っていた。というのも、学校では「精子と卵子が結合することで子どもが生まれる」と教えてはくれても、「それには勃起した陰茎を膣に挿入して射精する必要がある」とはっきりとは教えてくれなかったからだ。「射精」という現象にしても、教科書に精液の写真が載っているわけではないので、それが具体的にどのようなものであるかは、己の想像力によって埋めるしかなかった。おそらく、おれはすでに「精通」を終えていて、今この瞬間も空気中に精子がばらまかれているのだ。そして結婚して女性と暮らすようになると、空気中の精子をその女性が吸い込む確率が上がり、最終的に卵子と結合することになるのだ……これが、中学1年生のおれが想像する、子どものできるメカニズムだった。このようなトンチンカンな考えを抱いている生徒であっても、保健体育の試験ではクラスで一番の成績を取れてしまうのだから、日本の性教育は本当に終わっていると思う。まあ、よくは分からないが、とりあえず女性の股間には「クリトリス」といういやらしい器官がついているということなのだろう。

 その日の夜は、布団に身を沈めてからも一向に眠ることができなかった。くみちんさんの衝撃的な告白が頭にこびりついて離れず、彼女が受けた凌辱を想像するたびに、おれの股間は抑えようのない衝動で膨らみ続けた。ただ、それは彼女を凌辱する男性たちの視点に共鳴してのことではなかった。おれは出生時、外性器の形状によって男という性別を割り振られ、それに疑問を抱くことなく男として生きてきたわけだが、おれが同一化したのは加害者である男たちではなく、被害者であるくみちんさんのほうだった。彼女が胸をまさぐられる場面を思い浮かべると、おれは自らの手で自らの胸をまさぐり、彼女が肛門から膣へかけて指を這わせられる情景を想像すると、おれは自らの肛門から陰嚢へと続くラインを指でなぞった。履いていたボクサー・ブリーフを尻の谷間に食い込ませてT字型にすると、それは女性もののパンティーへと姿を変えた。野球拳で敗北し、最後の一枚を自らの手で下ろさなければならない彼女の屈辱を想像しながら、おれもまた、ゆっくりとパンティーを下ろしていく。すると、限界まで膨らみ、大地に突き立つ石塔のように硬くなった肉棒がまろび出て、それはわずかな刺激にも敏感に反応し、痙攣するように震えた。手で優しく愛撫するのもよいが、もっと他者にまさぐられている感覚が欲しいと思ったおれは、膝を立てて両腿の間にそれを挟み込み、きりもみ式の火おこしの要領で、挟んだ肉棒を交互に回転させてみることにした。すると血液だけでなく、なにか得体の知れないエネルギーが脚の付け根のあたりに集中してくるのが感じられ、そのまま腿を使ってきりもみし続けると、突如、今まで味わったことのない感覚が全身を駆け抜けた。まずい……絶対になにか良くないことが起こっている……今すぐ中止しなければ大変なことになる……そう直感しながらも、この背徳の快楽に抗うことはできず、おれは腿で挟んだ肉棒を回し続けた。そして快感が頂点に達しようとした瞬間、尿道からなにかが勢いよく溢れ出そうになった。慌てて包皮を丸め込んでそれを押しとどめると、続いて痙攣するような快感が波のように押し寄せ、閉じた包皮の中に濃密な液体がドクドクと放出されるのが感じられた。やがて震えが静まると、マラソン大会を走り終えたあとのような虚脱感に包まれた。しばらく茫然自失としたのち、息を整え冷静さを取り戻すと、まずは包皮の中に溜まっている未知の液体を処理しなければと思い、トイレへと向かった。包皮を開いてみると、白濁した粘性の液体が垂れ落ち、真夏の木々の甘い香りと、磯の生物の生臭さが混ざったような、淫靡な匂いが鼻を突いた。

 クッセェーーー!!!!!

 と思ったが、同時におれは次のように叫んだ。

 ユリーカッ!!!!!

 そうか……そういうことだったのか……ついにすべての謎が解けたぞ。これが「射精」という現象であり、この白濁液が「精液」と呼ばれるものなのだな。そして、これが女性の体内に注入されると、液中に含まれる精子が子宮から卵管へと遊泳していき、最終的に卵子と出会って「受精」と相成るわけだ。では、精液はどこから注入すればよいのか? それがズバリ「膣」である! 女性の股間には尿道だけではなく「膣」と呼ばれる別の穴が存在し、そこに勃起した陰茎を挿入して射精することで、精液の注入が可能となるわけだ。精液の匂いを嗅いでからこの想念に至るまでの時間、わずか零コンマ五秒。性に目覚めてから6年の時を経て、ついにおれは生命の神秘に到達したのであった。

 ……だが、これがすべての不幸の始まりだった。子どもが作られる仕組みを理解するということは、同時に、この世界には「セックス」と呼ばれる営みが存在するという残酷な真実を知るということなのだから。

自涜

 中学生だった頃のおれの世界観は、西欧近代の「進歩史観」がベースになっていた。歴史とは、直線的で不可逆的な発展の過程であり、人類は理性の力によって動物的な野蛮さを克服し、科学と民主主義を進化させることで、いずれは宇宙のすべてを解き明かすことができるのだ……漠然とそのように考えていた。人間にとって最も重要なことは、なによりもまず理性的で合理的な主体であることであり、精神が肉体に優越するのは当然のことであった。

 だが、人間も生物である限り、精神が肉体から完全に独立することは不可能である。精神を支える生命活動を維持するためには、動植物を殺してその屍肉を喰らわねばならないし、疲労が溜まれば休息のために眠らなくてはならない。それ自体は仕方のないことであり、人間もまた動物であるという現実は、ある程度は受け入るしかないだろう。だが、セックスだけは別だ。理性的な文明人であるはずの人間に、そのような獣じみた行為が許されていいはずがなかった。

 永遠の愛で結ばれた者同士が誓いのキスをすることで精子と卵子が出会うとか、プラトニックな愛に包まれた共同生活をしているうちに自然と子宮に子が宿るとか、そういったものが精神であるところの人間に相応しい子作りのはずだろう。だが実際には、淫らに勃起した陰茎をしとどに濡れた膣の中に挿入し、あの磯のように生臭い粘液を体内に射出するという淫猥な行為によって、人間は生まれてくるのである。「新たな命を授かりました」というカップルの報告は、とどのつまり「我々はつい先日おまんこにおちんぽを挿れました」という報告に他ならず、世の大人たちは「私は理性的な文明人ですよ」といった澄まし顔をしながら、その裏ではこのような動物的で破廉恥な行為に及んでいたのである。大人はみんな嘘つきで、社会は欺瞞の塊だった。人間は決して理性的な主体などではなく、数百万年の昔から現在に至るまでずっと、野蛮で淫らな獣であり続けてきたのであった。

 だからこそ、初めての射精を経験したあと、おれは二度と淫らな欲望に身を任せることはすまいと固く決心した。今こそ我々は、遺伝子に刻まれた旧式の本能とは決別し、物質から解放された理性的な存在へと進化すべき時なのだ。おれは動物ではない。淫らな欲望に屈するような意志の弱い存在ではない。おれは神より地上の支配を委託されたアダムとイヴの末裔、理性ある人間様だ!



 オナ禁を決意をした次の日、おれはさっそく二度目の射精をした。

 い、いや……これはなにかの間違いだ。神に誓ってもう二度と射精はしないぞ!



 い、いや……まだだ! そろそろ年が明ける。良い機会だ。来年の目標は「絶対にオナニーをしない」にしよう。そうだ、来年は絶対にオナニーをしない。だから、これは今年最後の、そして人生最後のオナニーだ!

 よし、年が明けたぞ。今年はオナニーをしない。絶対にしない。1月1日……1月2日……いいぞ、順調だ……1月3日……1月3日……1月3日……

 ああ、なんてことだ……

 まさか、自分がこんなにも淫らな人間だったなんて……

 ……デンマークの哲学者であるキェルケゴールは、絶望とは「それ自身に関係する綜合の関係における齟齬」であると説明している。簡単に言えば、人間は有限でありながら無限を志向する存在であり、両者の統合において齟齬が発生することは避けられないため、我々は自己を正しく受け入れることができず、絶望してしまうということだ。正確性に欠ける通俗的な説明でよければ、「理想の自分」と「現実の自分」のギャップに苦しんでいる状態とでも思ってもらえばよい。「清く正しい理性的な文明人である」という理想の生き方と、「気づけば淫らな妄想をしながら射精をしている」という現実の生き方とは、あまりにも乖離が大きすぎた。自涜のあとに訪れるのは「賢者モード」などといった生温いものではなく、それはまさしく「絶望モード」であった。汚らわしい性などとは関わらずに生きたいと願っているのに、どうしても自涜を止めることができない……もうこれで最後にしようと何度となく決意しても、気づけばエロフラッシュやエロSSを漁ってしまう……おれは射精をするたびに深い絶望を味わった。そして、このような醜い存在は、早くこの世から消え去ってしまったほうがいいと思った。

童貞

 或る日、部活動の友人の家で遊んでいると、突然ひとりが「よっしゃ、AVでも見るか!」と言い出した。「……は?」と呆気に取られる間もなく、言い出しっぺがDVDデッキに秘蔵のディスクを挿入すると、テレビに全裸の男女が映し出され、すぐさま交尾が始まり、「おお、最高!」「エッロ!」と友人たちが興奮し始めた。おれは二次元美少女のブロック崩しをするばかりで、それまでアダルトビデオというものは見たことがなかったが、モザイク処理のされていない剥き出しの性器が絡み合う様子はただグロテスクなだけであり、男と女が発するわざとらしい喘ぎ声も耳障りでしかなく、なにが良いのかさっぱり分からなかった。友人たちは「あー、早く童貞捨ててー」「前の彼女とマジでセックスしとけばよかったー、可愛かったし」などとこぼしているが、このような気持ち悪い行為をしたいと欲望するなど正気の沙汰とは思えないし、膣に陰茎を挿入できる機会を提供してくれるならば、相手は誰でもいいということなのだろうか。どうやら、誰もが自涜をするたびに希死念慮に囚われるわけではないらしく、彼らは人間の性の在り方についてあまり疑問を抱いていないようであった。

 そんな同級生の男子たちも、今はまだセックスに憧れるだけの童貞である。同級生の女子たちも、今はまだセックスよりは恋愛に憧れるだけの処女に過ぎない。だが、いずれ彼ら彼女らも成長し、大人になれば膣に陰茎を出し入れするようになるのだと思うと、気が滅入った。大半の中学生は「早く大人になりたい」「早く大人っぽいことをしてみたい」と考えるものだが、おれは生まれてこのかた、一度たりとも大人になりたいと思ったことはない。むしろ、まだ自己が精神として目覚めておらず、セックスなどという汚らわしい行為にかかずらう必要のなかった、あの無垢な子ども時代に戻りたかった。だが、猫型ロボットが発明されるのは遥か未来の22世紀の話である。タイム・マシーンによる救済が訪れるまでは、否応なくセックスという現実と向き合いながら生きていくしかない。

 選ぶべき道はふたつあった。ひとつは、仏門に入って修行僧となり、欲望を完全に否定する生き方である。しかし、そこにおれの幸福はなかった。セックスに対する嫌悪感があっても、おれはアセクシュアルというわけではなかったし、恋愛に対しても強い憧れがあった。セックスや恋愛を己の人生から捨て去ってしまえば、そもそも生きる意味がなくなってしまう。もうひとつは、自らも有性生殖を営む動物であることを観念し、他の人々のように欲望に素直に従う生き方である。だが、膣に陰茎を出し入れしては別れ、また別の膣に陰茎を出し入れしては別れ……そうした性器同士のネットワークには加わりたくなかった。

 どちらの道も選べない以上、残された道はただひとつ、矛盾するふたつの道を弁証法的に止揚し、第三の道を導き出すことである。そこでおれは「一生に一度しか恋愛をしない」という原則を打ち立てた。これならば、運命の人と唯一無二の愛を成就させるというロマンティックな欲望を諦める必要はないし、淫らな動物へと堕落して性器同士のネットワークに絡めとられることもない。また、この生き方においては、運命の相手は出会った瞬間から聖なる存在として認識され、決して卑猥な欲望の対象となることはない。セックスはあくまで親密な関係において愛を確かめ合うための行為であり、それ自体が目的となることはない。したがって、この教義を貫徹するためには、運命の相手と出会うまでは童貞を守り抜かねばならず、「童貞を捨てたい」などという願望は、異端として火あぶりの刑に処せられなければならない。「童貞を捨てたい」と誰かが言うとき、そこにあるのは他者と結びつきたいという願望ではなく、ただ自分自身への関心だけだ。「セックスの経験がある」という社会的地位を得るためなら、「童貞と思われるのは恥ずかしい」という劣等感を拭うためなら、他者を道具として利用することさえ厭わないというわけであり、まったく見下げ果てた畜生どもである。童貞とは捨てるものではなく、むしろ守るべきものであり、最後に捧げるべきものなのだ。
 こうして、性に目覚めてから8年の葛藤の末に、おれは「童貞哲学」を完成させた。

性と聖

 さて、「童貞哲学」を完成させてからというもの、おれは少しだけ心が軽くなっていた。「待てば甘露の日和あり」ということわざが示す通り、運命を信じて待っていればいずれ出会いは訪れるのだから、「童貞を捨てたい」「彼氏が欲しい」などと焦っている連中のことは放っておいて、おれはマイペースに泰然自若と構えていればよいのだ。
 こんな気分のいい日は、音楽でも聴くに限る。新しい音楽でも発掘しに、またTSUTAYAにでも行ってみようかな。

 店内に入り、「J-ROCK」のコーナーに行ってみると、正面向きに飾られていた賑やかなアートワークがおれの目を引いた。銀杏BOYZか……確か青春系のパンクバンドだったよな。店員の作ったポップにもそのようなことが書いてある。まあ、よくは知らないが、物は試しである。試聴用のプレイヤーにCDを挿入し、ヘッドホンを装着して再生ボタンを押す。すると、音割れのしまくった爆音のAコードとともに、音割れのしまくったボーカルのアジテーションが始まった。

あいつらが簡単にやっちまう30回のセックスよりも
「グミ・チョコレート・パイン」を
青春時代に1回読むってことの方が
僕にとっては価値があるのさ
現実なんて見るもんか
現実なんて見るもんか

銀杏BOYZ「十七歳(…Cutie girls don't love me and punk.)」

 ……ちょっと待った

 いったん、停止ボタンを押す。ここ最近、おれはマキシマム ザ ホルモンやSystem of a Downのようなラウド系のバンドを好んで聴いていたし、彼らの多用する卑猥な言葉遣いにもすっかり慣れていたので、ちょっとやそっと過激な程度ではもはや驚かなくなっていた。しかし、同じようにやかましく下品であっても、銀杏BOYZの過激さはそれらのバンドとは明らかに異質だった。

 なんだこれ……

 音から精子の匂いがするんだけど……

 過激なバンドは数あれど、精子の匂いをサウンドに閉じ込めたバンドを聴くのは流石に初めてだった。「おもしろフラッシュ」を楽しもうとして、誤って「脱衣ブロック崩し」を始めてしまったときと同じように、おれは新しい音楽を探しに来たはずなのに、なぜだか耳から精子の匂いを嗅いでいた。

 ……いや、いくらなんでもこんなCDをレンタルすることはできないだろう。当時の我が家では、兄弟の中で最も早くロックに目覚めたおれが新譜の仕入れを担当しており、借りてきたCDはすべて兄弟で共有するようにしていた。よって、この精子くさいCDをレンタルすれば、兄弟もこの精子くさいCDを聴くことになる。性に関する話題など兄弟の間ではご法度であり、こんな性的な音楽に興味を持っていることが知れたら、明日から「エロい奴」認定されてしまうのは確実だった。

 よし、こんなバンドは聴かなかったことにして、さっさと棚に戻してしまおう……そう思いながらも、精子の匂いが染みついたような歌詞カードに目線は釘づけになり、まるで見えない誰かに操られているように、おれの手はいつの間にか再生ボタンを押していた。

あいつらが簡単に口にする100回の「愛してる」よりも
大学ノート50ページにわたってあの娘の名前を書いてた方が
僕にとっては価値があるのさ
現実なんて知るもんか
現実なんて知るもんか

銀杏BOYZ「十七歳(…Cutie girls don't love me and punk.)」

 この曲で叫ばれていたのは、簡単に「30回のセックス」を行ったり、軽々しく「愛してる」という言葉を口にしたりするような人間たちに対する、強烈な呪詛であった。『グミ・チョコレート・パイン』という書物のことは知らないが、おそらく「あいつら」が絶対に読むことのないような青春小説の金字塔かなにかだろう。たとえ鬱屈した学生生活であったとしても、青春時代に「グミチョコ」を読むことの豊かさを知っている己のほうが「あいつら」よりも優れている……50ページにわたって大学ノートにあの娘の名前を書いている己のほうがあの娘のことを純粋に愛している……それは、持たざる者による死に物狂いのカウンターだった。

I HATE MY SELF AND I WANT TO DIE.
大嫌い僕自身

銀杏BOYZ「十七歳(…Cutie girls don't love me and punk.)」

 しかし、この世界で最も嫌悪すべき人間は「あいつら」ではない。この世界でもっとも嫌悪すべき人間は、本当は自分もセックスがしたいくせに、誰からも愛されないから、ルサンチマンを発露することでしか自己を確認することができない、そんな自分自身なのであった。

 「十七歳」は1分24秒しかないため、すぐに「犬人間」「日本発狂」へと矢継ぎ早に曲が移り変わっていった。そして「援助交際」を聴き終えたところで、おれは再び停止ボタンを押した。これはもはや、「歌詞が良い」とか「サウンドが良い」とか、そういった次元の音楽ではなかった。これは「激しい音楽で平日のストレスを発散♪」といった、娯楽としての音楽からは遠くかけ離れていた。これはいわば、読者の人生を一変し得る可能性を秘めた思想書のようなものであり、そこにはおれの「童貞哲学」に通ずるなにかがあった。己の魂に素直に従うなら、確実にレンタルすべき一枚だ。しかし、絶対に家族には聴かせたくないよなあ……どうしよう……。

 しばし迷いつつも、結局のところレンタルすることにした。性的な要素があるからといって、いちいち反応して恥ずかしがるのは、ミケランジェロの『ダビデ像』を見て「うわ、ちんぽだ!」と騒いだり、ティツィアーノの『ウルビーノのヴィーナス』を見て「うわ、おっぱいだ!」と目を覆ったりするようなもので、それは芸術を解する能力のない無教養な輩のすることである。おれが借りてきた作品は「脱衣ブロック崩し」のようなポルノグラフィーではなく、有史以前からの歴史と伝統を持つ音楽という芸術なのだから、一流の芸術愛好家たるもの、恥ずかしがらずに堂々と聴けばよいのだ!

 ……こうして自己正当化を終えたのち、帰宅して改めて『DOOR』というアルバムを聴いてみると、生臭い精子の匂いがするのは7曲目の「SEXTEEN」までで、8曲目の「リビドー」から少し雰囲気が変わり、9曲目の「夢で逢えたら」以降は、むしろ他のどんなバンドよりもロマンティックな楽曲で占められていることに驚いた。

世界の終わり来ても僕等ははなればなれじゃない
世界の終わり来てもきっと君を迎えにゆくよ

銀杏BOYZ「夜王子と月の姫

そう 僕は天使なんかじゃない
君の名前は 神様なんかじゃない
あいつは ちっとも 仏様じゃない
そう 僕等は飯食って
セックスするだけの人間様さ

銀杏BOYZ「人間」

 このような「性」と「聖」の二重性がなく、ただ下品なことを歌うだけのバンドであったり、ただロマンティックなことを歌うだけのバンドであれば、おれが銀杏BOYZに惚れ込むことはなかっただろう。我々は「飯食ってセックスするだけの人間様」であると同時に、「世界の終わり来てもきっと君を迎えにゆく」と思えるような聖性を兼ね備えた、有限性と無限性に引き裂かれた存在なのだ。そして、そのような罪と救いの狭間を生きる己自身を自覚することによって初めて、人生は開かれてゆくのだろう。

 おわり

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