第10回 「サンボマスター - 世界はそれを愛と呼ぶんだぜ」の思ひ出
「なんかゲームが好きな人たち? のドラマが始まるらしいわよ!」
「ゲーム? ポ、ポケモンとか?」
「うーん、よく分かんないけど、とにかくあんたゲーム好きでしょ。見なさい!!!」
「∩(´;ヮ;`)∩ンヒィ~」
2005年7月7日、こうしてドラマ『電車男』の放送が始まった。中森明夫がコミケに集まるような人々を「おたく」と呼称したのは1983年のことであり、また「おたく」という存在が或る事件を通じて人口に膾炙したのは1989年のことであるが、それでも2005年時点での一般家庭における「おたく」に対する認識は、この程度のものであった。
当時、中学1年生だったおれは、「おもしろフラッシュ倉庫」などに入り浸っていたので、2ちゃんねるやアスキー・アートなどのインターネット文化については馴染み深かったが、肝心の「おたく」なる人種の生態についてはあまりピンと来なかったし、母親に至っては「なんかゲームが好きな人たち」という誤った認識しか持つことができなかった。
このときはまだ、この気持ちの悪い「おたく」の一員におれ自身がなってしまう未来が待っていることなど、知る由もなかったのであった……。
まあ、「おたく」のことなどどうでもよろしい! 今回の本題は「おたく」ではなくサンボマスターである!
『電車男』の第1話が終了し、エンディングが始まると、JR秋葉原駅で見慣れた男たちがロック・ミュージックを奏で始めた。なんと、アニメ『NARUTO -ナルト-』でオープニング・テーマを担当していたサンボマスターではないか。彼らも出世したものだなァ……と感心していると、「世界はそれを愛と呼ぶんだぜ!!!」と絶叫して、この日の放送は終わった。
さて、この曲を聴いて中学1年生だったおれがなにを感じたかについてこれから語っていくわけだが、その前に、当時おれがどのような人間であったかを伝えておく必要があるだろう。
おれは「愛してる」だの「会いたい」だのといった曲を聴くと、
死ねッ!!!!!!!!!!!!!!
と、思うような人間である。
また、「かけがえのない仲間」だの「親に感謝」だのといった曲を聴くと、
殺すぞッ!!!!!!!!!!!!!
と、思うような人間である。
貴様らが会いたいなどと歌って震えている今この瞬間にも、アフリカでは貧しい子どもたちが飢えに苦しんでいるのだぞ!
貴様らが親にマジ感謝している今この瞬間にも、イラクでは戦争によって無辜の民が命を落としているのだぞ!
まあ、意識の低い一般人どもにとってみれば、「会いたい」とか「マジ感謝」とか、ま、それが普通ですわな。かたやおれは、図書室で『はだしのゲン』を読んで、呟くんすわ。
it'a true wolrd
このようなひねくれ者からすれば、「世界はそれを愛と呼ぶんだぜ」などという、愛を真正面から叫んだ暑苦しい曲などは、如何にも相性が悪そうなものである。さて実際のところ、この曲を聴いておれはどう思ったかというと……
素敵やん、と思った。
しかし同時に、おれは疑問に思った。「世界はそれを愛と呼ぶんだぜ」などというタイトルの、しかもそれをサビで連呼するような曲は、本来であれば嫌って然るべきものである。それがなぜ、こうまで心に響くのか……。
ううむ、と悩んだ末に、中学1年のおれが出した結論は、以下のようなものであった。
重要なのは、どのようなテーマを選択するかではなく、選択したテーマをどのように描くかである。
どういうことか。
例として、女子学生たちの間ではカリスマ的存在となっていたものの、ネット上では歌詞が薄っぺらいJ-POPの象徴として揶揄の対象となっていた、或るアーティストを引き合いに出してみよう。個人攻撃を避けるため名は伏せるが、西野カナのことである。
特にネタにされていたのは、代表曲『会いたくて 会いたくて』の「会いたくて 会いたくて 震える」というフレーズである。引用するだけで「会いたくて」と4回も書かせるとは、改めて凄まじい楽曲だとは思うものの、しかしよくよく考えてみれば、好きな人に会いたいという気持ちは普遍的で神聖なものであり、バカにされるような代物ではない。好きな人に会いたくて会いたくて震えた経験は、おれにだってある。
つまり、歌われている内容自体は、ある種の「真実」なのである。同様の経験をしたことのある女性たちから多くの共感を得たのも、無理からぬことであろう。
だが、多くの共感を得たには違いないが、芸術的な価値は低いと断じざるを得ないだろう。好きな人に会いたいという気持ちを、どこかで聞いたようなフレーズを並べ立てることでしか描写できないのであれば、それは表現としてあまりに乏しい。好きな人がいれば会いたくなるのは周知の事実であり、「会いたくて震える」というのは、その事実の再提示であるに過ぎない。「2 + 2 = 4」とか「犬が西向きゃ尾は東」などと歌っているのと同じようなもので、含まれている情報量は皆無と言ってよい。
ただ、上記を「愛だの恋だのくだらないぜ」というふうに、テーマ設定の問題と誤解すれば、逆方向の悲惨な表現が生まれてくる。
大槻ケンヂの小説『グミ・チョコレート・パイン』において、おれには人と違ったなにか特別な才能があるはずだと信じる主人公は、友人と結成したバンドで作詞を担当することになる。そうして、「狂」「殺」「血」など殺伐とした言葉を並べ立てた詞を書き上げ、これこそがおれの才能だったのだと悦に浸るわけだが、もう一人のバンド・メンバーが用意してきた「鉄道少年の憩」という異様な詞を読むに及び、すぐに打ちのめされることになる。心の中のドロドロとした感情を描くというテーマは同じであっても、主人公の書いてきた詞は、ただ毒々しい言葉をそのまま並べ立てただけの稚拙な表現でしかなかった。
こういったことは、マイナー志向の表現者が陥りがちな落とし穴である。売れ線の音楽をやっている奴らと違って、通なインディー・ロックを奏でているおれたちは偉いだとか、愛だの恋だの歌う連中と違って、「心の闇」を歌うおれは世界の真実を見つめているだとか、そんなわけがない。問われているのは作品の「質」なのであり、大昔のインディー・ロックを焼き増ししたような劣化コピーしか奏でられないのであれば、「心の闇」とやらを表現するのに「鬱」だの「死」だのといった言葉を並べ立てることしかできないのであれば、それは電子の砂漠で死体を見て「it’a true wolrd」と呟いては悦に浸る、ダークサイドに堕ちた西野カナであるに過ぎない。
さて、話をサンボマスターに戻すと、「世界はそれを愛と呼ぶんだぜ」という楽曲は、他の「愛」や「平和」を歌った楽曲群と比べると、明らかに一線を画していた。一聴して、中学1年のおれは次のような確信を抱いた。
「この人たちは、本気で愛と平和を歌おうとしている」
彼らの歌う「愛と平和」は、決して能天気で平和ボケした主張ではなかった。「愛と平和」などというのは、どう考えたって恥ずかしい、世間からバカにされること必至のフレーズである。だが、彼らはそれを重々承知のうえで、あえて正面に掲げることを決めたのだ。それさえ言えば承認が約束されるような、使い古されたロック的なフレーズに安住することは、なんら革新性のないただの保身であるに過ぎない。それよりは、恥を覚悟のうえで「愛と平和」を高らかに歌い上げるほうが、よほどラディカルな表現であった。
ここまではテーマ設定の話であり、前述したように肝心なのはその「質」であるが、彼らは質の面でも見事な仕事を成し遂げていた。「世界はそれを愛と呼ぶんだぜ」という、通常であれば鼻白んでしまうようなフレーズを、楽曲を構成する「声」「サウンド」「詞」などの非散文的な要素が補強し、確かな説得力を与えることに成功している。彼らは「愛と平和」というテーマが持つ価値を、見事に蘇生させたのである。
……というのが、中学1年のおれが抱いた感慨を、齢30のオッサンが言語化し直したものだが、どうやらこれは作者の意図に合致したものであったようである。
ただ、誰もが「愛と平和」という叫びを、このように受け止めたわけではなかった。コント「ブサンボマスター」に象徴されるように、「なんかクサいことを暑苦しく歌うバンド」というのが世間の一般的なイメージであったし、数年後、高校の同級生にサンボマスターを聴いていると言ったときには、
「あー、そんな変な奴らもおったなあ。にしても、あいつら消えたよな」
との有難い返答を賜った。まあ、世間とはそのようなものである。
しかし、その程度のことは当人たちも覚悟していたことであり、大した問題ではなかったようである。
世間に笑われようとも、少なくとも神戸の片隅に住む一人の少年の心には、確実に彼らのメッセージは届いていたのだから、それでいいのである。
おわり
追記
改めて西野カナの「会いたくて 会いたくて」を聴いてみたら、思ったよりまともな曲だった。2010年代以降は、サビのメロディーで勝負するような従来のJ-POP的な楽曲が減少傾向にあるので、ちゃんとJ-POPをやっているというだけで好感を持ってしまう。そんなわけで、世の女子学生たちから遅れること13年、ついにおれも会いたくて会いたくて震えたのであった。
おわり