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第二章 意味 2〈意味〉

 個別的な物事は、ある類型である。類型は、物事のさまざま性質の共通性から形成されており、その中で、連関の共通性から形成される類型もある。このように、連関の共通性に基づく類型における共通な連関を、〈意味〉と言う。したがって、物事ではなく、類型が〈意味〉を持つ。〈意味〉とは、物事の類型における独特の連関形式、すなわち、類型的〈連鎖性〉である。このような〈意味〉の多くは、規範的水準の協証によってこそ存立している。

 したがって、すべての類型が意味を持つわけではない。たとえば、犬という類型は、種族としての性質の共通性から形成されているものであり、犬という意味の共通性によるものではないし、そもそも犬という意味などない。強いて言えば、防犯・盲導・愛玩などの目的が、犬(を飼うこと)の意味であろう。

 類型とは、正確には、物事の集合ではなく、物事の理念型(Idealtypus)である。それは、およそ集合としての量的な性質を持たず、ましてや、平均としての程度的な性質も持たず、むしろ、ただ位相としての位置的な性質のみを持つ。つまり、物事は、ある類型である/ない、のいずれかであり、中間はない。しかし、このデジタルな判別において、意味も、ある/ないが判別され、この類型が、我々の物事とその脈絡の把握を簡便にしている。もっとも、物事は、この類型である/ないのいずれかであるが、しかし、主観によって、この判別が異なり、社会的に、その類型であるともないともされることはある。

 先述のように、連関は、〈連鎖性〉〈類縁性〉〈弁別性〉という性質を持つ。そして、連鎖性は意味と、類縁性は選択と、弁別性は意義と関係している。あえて簡潔に言えば、連鎖性は、類縁性や弁別性を捨象した局所的な連関のことである。

 〈意味〉は、それぞれの類型に固有の性質であり、「個性」に対して「類性」とも呼ぶことができる。そして、その固有の〈連鎖性〉は、その連鎖性の両端である独特の〈状況適合性〉と〈状況転回性〉からなる。すなわち、ある類型は、その類型に固有の〈意味〉として独特な〈連鎖性〉、つまり、[独特の状況類型の適合条件に適合し、独特の状況類型の転回帰結へ転回する]という性質を持つ。この適合条件は、その転回帰結と継時的であることも、重層的であることもある。同じ連鎖性、すなわち、同じ状況適合性と同じ状況転回性を持つ物事は、同じ意味を持ち、同じ類型である。もっとも、この[同じ]ということは、脈絡に応じてその範囲が細分・包括される。

 たとえば、電灯は、[暗い]ということが状況の適合条件であり、[明るくなる]ということが状況の転回帰結である。これは、電灯という類型に固有のものであって、電灯という類型である個別的な物事も、この類型の連鎖性形式が妥当する。というより、この電灯という類型の連鎖性形式が妥当するがゆえにこそ、その個別的な物事は電灯という類型である。また、その他、電灯は、[電気が来ている]ことなどを状況の適合条件とする。[暗い]という条件は、[明るくなる]という転回帰結において倒壊するがゆえに継時的であるが、[電気が来ている]という条件は、[明るくなる]という帰結においても存続するがゆえに重層的であり、それも、[前者が倒壊すると後者も倒壊する]ということから、存立重層的である。

 このような機能的な意味の理解は、プラグマティズム(プラグマティシズム)によって案出された。ただし、プラグマティズムにおいても、パースは、あくまで対象の反応に定位しているのに対し、デューイらは、主体の対処に定位している。ここでの議論は、あくまでパースに近い。この点については、とくに Ch.S.Peirce: "How to Make Our Ideas Clear", "What a Pragmaticism Is", "Issues of Pragmaticism"、W.James: Some Problems of Philosophy, chap.4-6などを参照せよ。
 我々の日常における意味への問い、すなわち、「どういう意味か?」という問いは、「どのような理由によるのか?」ということであって、その問題の理由の方向として、その問答は、おおよそ二つに区別される。すなわち、機能理由の問題と、心理理由の問題である。
 機能理由としては、類型上の転回が問題となっている。たとえば、「このボタンはどういう意味か?」という問いに対しては、「そのボタンは、ヘッドランプである」とか、「非常通報装置である」とかいうことを答える。ここでは、具体的な脈絡は問題とはならない。むしろ脈絡から離れて、ただその個別的な物事の類型としての連鎖性、とくに状況転回性を問題としている。
 心理理由としては、脈絡上の根拠や意図が問題となっている。たとえば、「彼の「え!」とはどういう意味か?」という問いに対しては、「その「え!」は、意外さの驚きの表現である」とか、「残念さの悲しみの表現である」とか、「満足さの喜びの表現である」とかいうことを答える。また、たとえば、「「いやだ」とはどういう意味か?」という問いに対しては、「会社を辞める覚悟はできているということだ」とかいうことを答える。これらは、類型か、類型の代わりに弁別的ではない類縁的なもの(代替可能なもの)を答えている。しかしながら、そもそも、その問いは、類型に対するものではない。つまり、その意味を問う者は、たんにその物事が理解できないのではなく、すでにその物事が発生する脈絡的状況、とくにその物事を発生させた相手の心理からして理解できておらず、その物事を手がかりに脈絡的状況、とくにその物事を発生させた相手の心理こそを問うている。けれども、物事の類型は、その類型の意味である連鎖性、とくに状況適合性によって、その物事を発生させる状況類型を示しうる。それゆえ、その意味を答える者は、その物事の類型を答えることによって、その類型が適合するような状況類型であることを伝えている。そして、実際、問う者も、その物事の類型ではなく、その類型が適合している状況類型こそを理解し、その理解した状況類型からさらなる対応の展開をすることができるようになる。
 このように、日常的な用語使用もまた、ここでの分析概念である状況適合性や状況転回性に基づくものである、と言うことができる。

 一般に、一つの個別的な物事は、さまざまな状況適合性や状況転回性という連鎖性を持ち、それゆえ、さまざまな類型としての解釈ができ、その解釈されたさまざまな類型において、それぞれの意味を持つことになる。したがって、このようにして、一つの物事でも、多様な類型であり、多様な意味を持つ。しかし、この場合でも、それぞれの類型としては、それほど多様な意味を持つわけではなく、それも、むしろあくまで固有の意味である。

 言葉の意味などの場合、我々はそれを説明するために、その言葉を別の言葉で言い換える。しかし、このように言い換えられた別の言葉は、元の言葉の意味そのものなどではなく、元の言葉と同じ意味、同じ連鎖性(同じ状況適合性と同じ状況転回性)を持つ言葉、類縁的だが弁別的ではないがゆえに代替可能な言葉である、と考えられる。これは、言葉にはもはや純粋な類型を提示する方法がないことからくるものであり、事実上は類型を提示することと等価であろう。
 意味とは、連関であり、したがって、連関に自然的なものとと規約的なものがあるのと同様に、意味にも自然的なものと規約的なものとがある。〈自然的意味〉とは、何によるかはわからないが、ともかくそれこそ自然に条件から帰結へと転回するものである。これに対して、〈規約的意味〉とは、主体(自然人・組織体)が自由(自己理由的自発性)によって条件から帰結へと転回するものである。そして、規約的意味は、さらに、[転回してもよい]という〈許可的意味〉と、[転回しなければならない]という〈課当的意味〉とに分けることができる。
 同じ連関であっても、「転回」は、局所形式的な場合を、「展開」は、脈絡実際的な場合を意味するとする。

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