第二章 意味 5〈状況〉
先述のように、特定の可能性の開かれたある時点のある場面を〈状況〉と言う。〈状況〉は、物事以外のものから構成されているわけではない。とはいえ、単なる物事の集合そのものではなく、それ以下のものであり、また、それ以上のものである。というのは、そこには脈絡があるからである。物事の集合以下であるというのは、〈状況〉において、物事は、脈絡によって、さまざまに解釈されうる類型のうちのごく一部のものの意味しか顕在させることができないからである。また、物事の集合以上のものであるというのは、物事は、継時連関や重層連関として、顕在状態にある類縁的な意味の可能性を持ち、このような意味によって、さまざまな新たな物事に対し、それぞれに排斥条件や適合条件となっているからである。とくに、先述のような物事の意義は、脈絡においてこそ付帯してくるものであり、その物事そのものには内在してはいなかったものである。
また、〈状況〉においては、物事の意味は、相殺性や相乗性を持つ。それは、あくまで意味として類型に固有のものであり、類型が意味においてもともとこのような相殺性や相乗性を持っているということである。相殺性とは、[ある類型である物事は、ある他の類型である物事と共在すると、両者または不定の一方または特定の一方が意味を弱化する]という性質である。これに対し、相乗性とは、[ある類型である物事は、ある他の類型である物事と共在すると、両者または不定の一方または特定の一方が意味を強化する]という性質である。
これは、排斥条件や適合条件とは異なる。相殺性のある類型である物事であっても、たがいにその存在そのものまで排斥することはなく、共在することはできる。ただ意味を弱化し、ときには無意味にしてしまう。同様に、相乗性のある類型である物事であっても、かならずしも他方を適合条件としているわけではなく、他方が不在であっても、充分に有意味であることができる。相殺性のある類型である物事や、相乗性のある類型である物事は、連関として直接に対誤構造や対証構造を採って、たがいにその意味の弱化や強化を進展させていくかもしれない。さらには、衆誤構造や衆証構造へと展開することによって、新たな物事を帰結するかもしれない。いずれにしても、これらの構造的状況において、相殺性や相乗性を持つ物事は、相殺的・相乗的な意義を持つ。
たとえば、敵意は、相乗的であり、対誤構造によって進展する。そして、戦争という衆証構造に展開するかもしれない。しかし、その損害によって、さらに反戦という衆誤構造に転回するだろう。
また、たとえば、ヴァイオリンやビオラやチェロなどのそれぞれは、基本的には単音でしかないが、カルテットになると、そこにハーモニーが生じてくる。これは、単なる相乗ではなく、衆証への展開である。なぜなら、ヴァイオリンそのものがハーモニーの意味を含んでいる、というのは、意味の意味を拡大しすぎているからである。ハーモニーは、そのいずれの楽器も持たないものであり、それらの楽器が競演されるという物事(構造)そのものが持つ意味である、ということになる。
また、排斥条件が存在しないかぎり、適合条件がなくても、ある類型である物事が存在することはできる。それは、〈状況〉に適合条件が欠落しているがゆえに、無意味になってはいるが、しかし、その意味は潜在している。そして、その潜在する意味は、逆に、適合条件の不在を物事として際立たせる。不在というネガティヴな状況は、本来、そのものとしては「物事」と呼ぶには足らないものであり、それは、物事というより、まさにどの物事でもない〈状況〉そのものである。しかし、ある類型である物事がその適合条件の不在によって無意味である場合、その類型である物事は、その〈状況〉において、まさにその適合条件の不在によって無意味となっているものであり、また、ときには、その適合条件の出現によって有意味となりうるものである。この実際の脈絡によって、その状況そのものが、その適合条件を欠落することによってそれを適合条件とする類型である物事を無意味にしているものとの意義を持つ。そして、さらには、その適合条件である類型である物事も、不在でありながら、不在であるがゆえにそれを適合条件とする類型である物事を無意味にしているもの、ときには、その出現によってその類型である物事も有意味にするものとしての意義をすでに持っていることになる。
[世界が適合性の欠如において提示されてくる]という問題については、M.Heidegger: Sein und Zeit, teil 1, kap.3: Die Weltlichkeit der Welt (sek.16: Die am innerweltlich Seienden sich meldende Weltmäßigkeit der Umwelt)を参照せよ。ただし、ハィデッガーがそこで論じているのは、個々の物事の不適合的存在ないし不適合的欠落の方に重点があるように思われる。
しかし、いずれにしても、[物事が適合的に構成されてしまっている〈生活世界〉において、それを構成する個々の物事も、その〈生活世界〉そのものの存在も、その世界構造の中に背景として埋没してしまっていて、我々は主題化することができない(日常的にはする必要もない)]という問題指摘は重要である。そして、ここで考察では、このように背景化しているものこそ主題であり、その背景に埋没して張り巡らされた論理を解明しようとしている。