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第四章 人格主体 2〈自然人〉

 まず第一に、現代の我々の〈様相協証規範〉としては、[一般に、生きている〈自然人〉であるならば、〈人格主体〉であるということにしないといけない]ことになっている。その資格条件は、たかだか[人間という生物主体として、すくなくとも生理的に〈身体〉の〈代謝〉に連続同一性を保持している]ということにすぎない。つまり、連続同一的な〈身体〉であれば、それだけで、この資格を充足している。あとは、〈生活主体〉としての全般的行動能力も、〈生活意志〉としての全般的統整能力も、〈私我〉としての全般的意図能力も、実質的にはともかく、規範的には、あるということにされる。〈人格主体〉とされることは、〈規範主体〉、すなわち、規範能力があるものとされることであるが、しかし、いったん〈人格主体〉と認められるならば、実際の行動能力・統整能力・意図能力に欠陥があったとしても、その項目と程度に応じて、むしろ規範の負課の方が免責される。つまり、規範能力に欠陥がある項目については、そもそも規範が負課されず、したがって、逆説的だが、いかに規範能力に欠陥があっても、実際上は、その〈人格主体〉は欠陥なしの全般的な規範能力を示すことができることになる。さらに、とくに〈自然人〉の〈人格主体〉には、いわゆる「基本的人権」、すなわち、[安全に生存してもよい]という生存権、[自由に生活してもよい]という生活権、[幸福に生涯してもよい]という生涯権が規範的に付与され、したがって、他者はこれを規範的に侵害してはいけないことになる。奇妙なことだが、生きている〈自然人〉であるだけで、我々は、これだけのことをすべて認めることになっている。

 身体障害者、精神障害者、知能障害者は、それぞれ、行動能力、統整能力、意図能力の欠陥に対応する。しかし、行動能力・統整能力・意図能力は、かならずしもそれぞれ「身体」「精神」「知能」によるわけではない。たとえば、飛び箱が飛べないのは、かならずしも身体に物理的な障害があるからではなく、行動の統整能力に問題があるからである。我々の用語では、行動能力は〈生活主体〉の、統整能力は〈生活意志〉の、意図能力は〈私我〉のものである。しかし、何度も繰り返すが、〈生活主体〉と〈生活意志〉と〈私我〉は同一の主体における多重的な現象であって、独立に存立しうるものではない。

 一般に、下位の能力がないならば、現象としては、そもそも上位の能力は存立しえない。すなわち、行動能力がないならば、統整能力は存立しえず、また、統整能力がないならば、意図能力は存立しえない。しかし、行動能力や統整能力が全面的にないということも少なく、したがって、我々は、まともに機能する行動能力の分野によって、統整能力や意図能力をも現象として認めることができる。そして、いったんその存在が認められるならば、たとえ行動能力の障害で発揮されないにしても、統整能力や意図能力そのものは障害なく全般的である、ということも認められる。

 しかし、ここで資格(身分条件)となっている[生きている〈自然人〉である]ということは、そう簡単な問題ではない。一般に、[生きている]と[死んでいる]との間には、飛躍がある。中間はない。もちろん、[部分的に生きており、部分的に死んでいる]ということはあるが、同じものが中間であることはない。また、[[生きている]は[死んでいる]になるが、[死んでいる]は[生きている]にならない]という《生死一方性(不可逆性)》がある。したがって、部分的生死両立の場合は、その全体としての本質的機能の回復可能性をもって判断することになるだろう。つまり、一部が生きていても、全体としての本質的機能がすでに停止し、もはや回復しえないならば、全体としてもすでに死んでいるのであろうし、また、一部が死んでおり、全体としての本質的機能もすでに停止しているとしても、その機能が回復しうるならば、全体としてもいまだ生きているのであろう。

 とはいえ、〈自然人〉の場合、その全体としての本質的機能とは何だろうか。それは、個々の〈自然人〉で異なっているであろうし、また、それを判断する周囲の〈人格主体〉の利害によっても異なっているであろう。このため、生きているか死んでいるか曖昧になってくると、つまり、その〈自然人〉のなんらかの機能が部分的に死んだり、全体的に止まったりすると、本人の意向や実際の能力に関係なく、周囲の人々のそれぞれのばらばらな思惑で、[その〈自然人〉を生きていることにしたい人々]と[その〈自然人〉を死んでいることにしたい人々]とに分かれ、それぞれ[規範的水準においてその〈人格〉を立てる人々]と[規範的水準においてその〈人格〉を捨てる人々]とになり、それぞれの勝手な脈絡で行動していく。あれこれ発言すること以上に、そのように行動していくことそのものが、彼らの主張である。そして、結局は、衝突する問題の分野ごとに、両派の既成事実確立の力関係で徐々に現実脈絡が確定させられていく。なぜなら、〈人格〉さえ付与すれば、ない能力も規範的水準ではあることにすることができるからであり、また、〈人格〉さえ剥奪すれば、ある能力も規範的水準ではないことにすることができるからである。

 たとえば、医学的には生理的な代謝能力であるだろうが、しかし、社会的には日常的な交際能力であったり、また、政治的には権力的な発言能力であったり、また、法律的には規範的な所有能力であったりする。

 たとえば、いかに医学的にはいまだ生きていても、言語不明の身体麻痺では、政治的には死んだとしてその人格を無視されることもあり、そして、いったん政治的に死んだとされてしまった人間は、何を言ってももはや誰も耳を貸してはくれず、事実上も権力の回復は不可能となる。逆に、諸葛孔明のように、いかに医学的にはすでに死んでいても、その死を知られなければ、政治的には生きているとしてその人格を付与され、畏怖されることになる。現代でも、事実はどうあれ、法律的には、死亡診断書に記載された日時まで生きていたとされ、その規範上の日時こそが、相続などの構成要件となる。

 〈自然人〉は、「人が変わった」と言うように、実在的な意味ではおよそ同じ人間でも、規範的な意味ではまったく異なる人格になることがある。つまり、〈私我〉として、いままでとはまったく別の統一整合性の連続同一的な原則を立てることがある。けれども、〈自然人〉は、[実在的水準における身体の連続同一性]こそがまた規範的水準における主体の〈存在協証規範〉であり、連続同一的な身体であるものこそが、〈規範的規範主体〉であるとされる。したがって、身体が連続同一的である以上、いかに内面的な人格が変わっても、負課される外面的な権利や責任は変わらない。もちろん、変わった内面的人格が外面的問題を引き受けるならば、これを連続に変えて行くこともできるだろう。つまり、〈自然人〉は、いかに内面的人格が変わろうとも、その変わった内面的人格は、まさにまた規範的に外面的問題を連続同一的に引き受けることが規範的に要求される。

 自然人は、なぜか、ミドリムシのように、身体が二個体に分裂したり、また、二個体が合体したりなどしない。一身双頭のいわゆる「シャム双生児」の場合、その主体行動や〈生活世界〉の統一整合性を確保しようとするそれぞれの〈生活意志〉の相違によって、つまり、その〈生活意志〉の原則である〈私我〉の相違によって、別々に人格主体が規定される。つまり、頭が二つあって、それぞれが主体行動や〈生活世界〉に対して支配的であるがゆえに、いかに実在的水準において身体が単一であっても、別々の〈人格主体〉であるとみなされる。

 同様に、頭が一つしかなくても、いわゆる「多重人格」的状態として、主体行動や〈生活世界〉の統一整合性の連続同一的な原則である〈私我〉が、同時に、または、交代に、複数あるということがありうる。それでも、〈生活意志〉としての統一整合性が機能し、その〈人格主体〉が[それらの〈私我〉が両立しうる多義的な主体行動や〈生活世界〉のあり方]を慎重に選択しているうちは、その〈私我〉の複立は発現しない。ただ〈生活意志〉の調整が衰弱した場合、また、いかにしても両立しえないディレンマの問題に突き当たった場合にこそ、分裂が発現することになる。健全であれば、あれかこれかと逡巡した末に、〈生活意志〉が、いずれかの〈私我〉を放棄し、統一整合性を回復するが、今度は、その〈私我〉を放棄することが、選択した方の〈私我〉の原則に優位的に追加されることになり、問題ではない問題で〈生活意志〉の統一整合性に思わぬ障害を起こすことになる。

 ジャン=ヴァルジャンは、司教によってたしかに内面的には生まれ変わったかもしれない。けれども、そのことは、外面的な問題までをも切り捨てる口実とはなりえなかった。別人になるのは、たんにある人間が突然に消え、別の人間が突然に生まれることであって、けっして生まれ変わることではない。生れ変わるには、むしろまさにその人であったところから出発しなければならない。ヴァルジャンが生まれ変わるには、まず最後までヴァルジャンの罪を贖うべきであった。にもかかわらず、ヴァルジャンは、仮出獄の身上を切り捨てて別人になった。彼はここでまた盗んでしまった。とはいえ、ヴァルジャンは、罪に対する罰もまた不正なものであり、人々がつねに無欠の過去を要求する以上、自分がやり直すには、別人としての生涯を盗むしかなかった、と言うかもしれない。たしかに、「あいつは善いやつだ、あいつは悪いやつだ」と、「人生という曲道を善悪という直線で計ろうとする」ジャヴェールのような人々は多い。しかし、規範とはそういうものであろう。

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