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第五章 自己 1 実質的規範主体としての〈私我〉

 〈人格主体〉である〈自然人〉や〈法人〉は、〈規範的規範主体〉として、人格を付与され、規範を負課される。けれども、〈自然人〉や〈法人〉は、かならずしも規範能力、すなわち、規範定義能力と規範充足能力、すなわち、①〈生活主体〉としての全般的行動能力、②〈生活意志〉としての全般的統整能力、③〈私我〉としての全般的意図能力、を保持しているわけではない。〈自然人〉の場合には、能力的に従則できない規範は免責されるが、〈法人〉の場合は、協証存在規範によって〈人格主体〉が認められるためには、規範的に、これらの能力を保持していないといけない。そして、それが可能であるのは、〈組織法人〉だけである。つまり、〈人格主体〉の中でも、〈自然人〉と〈組織法人〉だけが、協証様相規範によって規範主体と認められる〈規範的規範主体〉である。というより、それは、協証様相規範によるから、[〈自然人〉と〈組織法人〉については、我々がそれを〈規範主体〉と認めないといけない、つまり、我々がそれにそれの規範を負課して、行動しないといけない]ということである。

 けれども、ここで我々が〈規範的規範主体〉として規範を負課するのは、実際には、実在的水準において連続同一的に〈生活主体〉としての全般的行動能力を具備している[〈自然人〉の身体]や[〈組織法人〉の成員の共同生活体]である。なぜなら、たしかに、規範を従則しないといけないのは、〈規範的規範主体〉として規範を負課される〈人格主体〉であるが、しかし、規範が従則されないといけないのは、一般に、実在的水準における〈生活主体〉としての〈主体行動〉ないし[〈主体行動〉によって形成される〈生活世界〉]であるからである。つまり、実際には、〈規範的規範主体〉として規範を負課されている〈人格主体〉があえてわざわざ規範を従則しようとしなくても、さらには、むしろ反則しようとしても、結果としてその〈主体行動〉や〈生活世界〉が規範に従則しているならば、問題はない。もちろん、規範には、意図規範、すなわち、[○○しようとしてもよい/してはいけない]というものもあるが、〈意図〉は、〈主体行動〉から独立に存在するものではなく、あくまである状況を実現しようとする〈主体行動〉の様相にすぎないものである。したがって、意図規範に関しても、[○○しようとする]ということもまた、実在的水準における〈生活主体〉としての〈主体行動〉の問題であり、今度は、実際に○○してしまったとしても、その過程で○○しようとしたという〈主体行動〉がないならば、反則していることにはならない。もちろん、一般には、〈生活意志〉として、○○しようとして○○しているが、そうではないことも意外に多い。

 たとえば、殺人未遂と過失致死とは、まったく別の行為である。殺人未遂罪は、殺人しようとする行動をしたことそのものが問題であり、過失致死罪は、殺人しようとする行動をしなかったことそのものが条件である。

 けれども、まったく〈人格主体〉が規範を従則しようとしないのに、最初から自然にその〈主体行動〉や〈生活世界〉が規範に従則しているようになるとはかぎらない。と言うより、自然には従則しないことがあるからこそ、規範である。絶対的に実現することは、わざわざ規範を負課しない。もちろん、練習によって従則しようとしなくても自然に従則するようになることはあるが、しかし、練習とは、まさに従則しようとすることである。

 負課されている規範を従則しようとすることは、意図することであり、負課されている規範をこのように自分の〈主体行動〉や〈生活世界〉の原則に取り込むのは、規範的にはともかく実質的には、[〈自然人〉の身体]や[〈組織法人〉の成員の集団]などではなく、その〈人格主体〉の〈生活意志〉の〈私我〉である。〈人格主体〉が〈規範的規範主体〉であるのに対して、〈私我〉こそが、〈実質的規範主体〉であり、〈主体行動〉の〈意図〉によって〈主体行動〉や〈生活世界〉に〈生活意志〉としての統一整合性を実現させるものである。ある規範の従則は、たんに規範として客観的に問題となっている当該の〈主体行動〉や〈生活世界〉によって従則されうるものではなく、それらの当該の〈主体行動〉や〈生活世界〉に規範を従則させようとする意図的な〈主体行動〉が主体的に必要であり、さらに言えば、規範を従則すべき当該の〈主体行動〉や〈生活世界〉、それらに規範を従則させようとする意図的な〈主体行動〉など、そこでは、多くの〈主体行動〉や〈生活世界〉などからなる生活全体の統一整合化が必要であり、まさに〈生活意志〉の統整、および、その統整における〈私我〉による原則定義が必要である。このように、客観的な規範的規範主体と、主体的な実質的規範主体とには、局点的と全体的とのギャップがある。負課される規範は、客観的にはたかだか局点的な問題にすぎないにしても、主体的には生活全体をおびやかすものともなる。

 たとえば、「パンを盗むな!」という規範は、客観的には、パンを盗むかどうかだけの問題である。しかし、この「パンを盗むな!」という規範を主体的に従則しようとするには、パンでなければ何を食べるのか、盗むのでなければどうやって手に入れるのか、など、生活全体を調整しなければならない。

 古代より不節制(アクラシア)は、倫理上の大きな問題となってきたが、いかに客観的に局点的な規範が負課されているとしても、主体は、生活全体の統一整合性のためには、むしろあえて連続同一的に、そのような局点的な規範など反則しようとすることがある。なぜなら、常識的に反則が起こりうる物事については、反則に対しては、すでに罰則規範が準備されており、局点的な規範に反則しても、その罰則規範に従則すればよいだけだからである。生活全体の統一整合性を崩壊させるくらいならば、罰則規範に従則させられる方がよいということもある。たとえば、殺人以外では死刑や無期になることもまずなく、刑務所での人権的待遇改善が進んだ今日、常習犯は、あえて望むわけでもないだろうが、犯罪による生活と刑務所での生活とを繰り返していれば、とくに生活に困窮することも反省に苦悩することもなく、小悪人としての無理のない安穏な一生をまっとうすることができてしまう。

 ただし、規範を従則するように実現させる、といっても、〈私我〉そのものはなんの行動力もない。この意味で、〈私我〉は、主体的なものではなく、きわめてただ主観的なものである。〈私我〉そのものは、物事がこのようにあることを発見し、あのようにあるべきであることを志向するだけで、なにもしないし、なにもできない。しかし、この〈私我〉こそが、ただ純粋に〈生活世界〉に統一整合性をもたらそうとするだけの不定型な〈生活意志〉に形式と対象を与える。〈私我〉なしには、〈生活意志〉は、支離滅裂なものとなってしまう。

 たとえば、テーブルの端のコップが落っこちそうだ。そのコップは、もっとテーブルの中心にあるべきだ。しかし、そのように思ったからといって、べつになにも起こりはしない。けれども、あのコップを割ってしまいたくないという強い意欲があれば、自然と手は伸び、コップをテーブルの中心に移す。割れないに越したことはないが、割れてしまっても仕方ない、と思っているうちは、手も伸びない。ただし、手を伸ばさないことが、そのまま、仕方ないと思っていることである(「未必の故意」)。

 したがって、〈私我〉といっても、そこには、[〈意図〉という様相を持ついくつもの〈主体行動〉によって、おのずから〈生活意志〉としての統一整合性が実現する]という現象があるだけのことである。〈私我〉は、〈主体行動〉の〈意図〉という様相からその存在が間接的に認められるにすぎない。というより、[〈主体行動〉がある状況を実現しようとする〈意図〉という様相を持つ]ということそのものが、規範を定義する〈私我〉という現象の一端である。〈私我〉は、その全体としては、〈生活意志〉という統一整合性の連続同一的な原則であり、〈生活意志〉という現象、すなわち、〈主体行動〉や〈生活世界〉の統一整合性の上に認められる連続同一性という二次的現象である。逆に言えば、いかに存在協証規範によって規範的に規範主体と認められようとも、〈生活主体〉としての〈主体行動〉のないものには、〈生活意志〉としての〈主体行動〉や〈生活世界〉の統一整合性はなく、また、〈生活意志〉としての統一整合性のないものには、〈私我〉としての統一整合性の連続同一的な原則もない。そして、いかに存在協証規範によって規範的に規範主体と認められなくても、あくまで〈生活意志〉があるならば、その〈生活意志〉の核心としてかならず〈私我〉が存在し、それが〈実質的規範主体〉となり、規範を負課されないとしても、自己や他者に規範を定義するものとなる。

 けれども、規範は、まさしく規範として従則されようとすることにおいてこそ、現象として存在しうるものである。つまり、逆に言えば、実際は、〈生活意志〉が〈私我〉の保持している規範に従則しようとすることにおいて、規範が存在し、また、その規範を保持している〈私我〉も存在する。つまり、〈私我〉は、〈生活意志〉によってこそ照出されるものであり、派生的なものである。たしかに、〈生活意志〉は、連続同一的である〈私我〉に依拠するが、しかし、それは、〈私我〉が連続同一的であるからではなく、むしろ〈生活意志〉がある一群の規範に連続同一的に依拠しようとすることによってこそ、そこにそれらの一群の規範から構成されているものとして〈私我〉という現象が出現する。つまり、〈生活意志〉が、その統一整合性という本質的性質によって一群の規範に連続同一的に依拠しようとする現象そのものが、〈私我〉である。

 規範は、どこかにジャガイモのようにゴロっと転がって実在しているものではない。

 〈生活意志〉が、身体の内部にあるものではなく、実際は、主体行動や〈生活世界〉における統一整合性という現象そのものであるように、〈私我〉もまた、身体の内部にあるものではなく、〈生活意志〉の上に、すなわち、主体行動や〈生活世界〉における統一整合性の上に成り立つ現象であり、それは、〈生活意志〉が統一性の中心とし整合性の根拠としているものである。したがって、身体だけのもの、主体行動や〈生活世界〉のないものには、また、たとえ主体行動や〈生活世界〉があってもそこに〈生活意志〉としての統一整合性がないものには、〈私我〉もない。

 けれども、まれに〈身体〉もない何かが超常的な方法で人々をある規範に従則させようとしていると考えられることがある。そのようなものは、一定の規範を保持し、人々を従則させようとすることにおいて、たしかに〈私我〉であり〈生活意志〉である。このような〈身体〉がない〈生活意志〉ないし〈私我〉の現象は、〈霊魂〉と呼ばれる。しかし、これは、通常の〈身体〉がある場合からの派生概念であって、けっして、〈身体〉と〈霊魂〉とによって〈生活意志〉や〈私我〉が構成されている、というわけではない。

 〈私我〉は、いわゆる〈意識〉ではない。たしかに、近代哲学において、〈意識〉は、重要な道具となった。それは、デカルトの「我思うゆえに我在り」のテーゼに始まり、カントにおいて瑣末なスコラ学的体系にまで高められ、フッサールに至って時代錯誤的なダメ押しがなされた。くわえて、フロイトやユンクなどの心理学においても、さかんに研究された。しかし、我々はほんとうに〈意識〉などというものを持っているのだろうか。それは、あたかも「人間の頭の中には指令室があり、そこでモニター画面を見ながら〈意識〉を持ったさらに小さな小人が人間を操作している」かのようである。

 けれども、厳密に反省してみるならば、我々が通常に「意識」と呼んでいるものは、概念や知覚の場などではなく、概念や知覚そのものであり、もっと明確に言えば、それは「概念」とか「知覚」とか呼ぶほどのものですらなく、単なる聴覚的な〈内話〉や視覚的な〈想像〉というような現象にすぎない。それも、日常生活においては、およそ持続的なものではなく、ときたま暇をもてあましたときに(学者はそれが日常かもしれないが)、むしろ現実から切り離された状況において生じるくらいものでしかない。

 すでに、カント以前に、ヒュームは、〈意識〉を「知覚の束」として、その実在を否定し、とくに現代哲学では、ライルは、[〈意識〉の存在は、言葉のレトリックを文字どおりに採る誤解にすぎない]として「デカルトの神話」と命名して批判し、ウィットゲンシュタインは、[〈意識〉があるにしても、日常生活には無関係である]ということをさまざまなモデルで証明した。事実として、我々は、〈意識〉なしでも、また、〈意識〉ありでも、問題なく日常生活をしており、問題なく日常生活ができるならば、我々は他人から充分に「意識」があると認められる。

 〈意識〉は、[〈生活意志〉の自己認識]であり、自己認識しなくても、〈生活意志〉は存在し、機能しうる。ただし、日常的ではない不慣れな物事においては、この[〈生活意志〉の自己認識]である〈意識〉は、[現実と意志とのステップ=バイ=ステップの過程分割的な照合確認]として有効に機能する。

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