虚偽や不正や悪徳を超越する、ジャヤとヴィジャヤの物語
今が一番、最悪な時代なのかも知れません。嘘コロナ、殺人ワクチンの強制、お金の為に魂を売った権威者や専門家、TVなどマスコミの虚偽と隠蔽とプロバガンダなど、どこを見ても悪のオンパレード。冷静に情報を集め調べて、現在の世界の虚偽や不正や悪徳に気付いている方々も多いでしょう。
世の中には、悪い方向に人を陥れ、惑わせ、混乱させ、苦しませ、殺す、悪魔のような人間は確かに存在します。それは現代でも、クリシュナ神やラーマ神がいた太古の時代でも同じです。
なぜ、こんなに悪い人々が存在し、悪いことが起きているのか?霊的な意味は、果たして何なのか?カルマの法則(善因善果・悪因悪果の法則)なのか、あるいは神の遊戯なのか?渦巻く、カリユガ(霊的においての暗黒・争闘の時代)の波に、溺れて苦しみ、救いはないのだろうか?
善悪に関してひとつだけ、大切な真実があります。悪人は善人と同じように、神様が書いたドラマのシナリオの役割として存在しているのです。悪い人々は、高尚な人々や聖者を守るための、神様の道具でもあるのです。それも、いつかは受け入れなくてはならない事柄です。
我らがスワミ・シヴァナンダは、このことに関してはかなり厳しく指摘しています。
『世に悪が存在する理由。あなたの現在の魂の進化の段階では、とうてい理解できないでしょう。私も説明できません。不可解なマーヤ(幻影)ですから。自分でマーヤを取り去り、ブラフマン(神)の意識がはっきりと自覚できたとき、次の質問の段階に移るのです。今はこの疑問に悩み、とらわれてはいけません。答えは得られません。エネルギーを無駄に使うだけになります。悪を超越した次元に至りなさい。その方法は存在します。 - スワミ・シヴァナンダ- 』(ヨーガの空の科学 P.312)
この世の悪の存在理由は、シュリ―マド・バーガヴァタムの第7巻1話の『ジャヤとヴィジャヤの物語』で神秘的で美しく描かれています。ヨガの真実の道を歩んでいる方には、避けて通れない内容です。
『ヴィシュヌ神の住む天界ヴァイクンタの門番であったジャヤとヴィジャヤは、ヴィシュヌ神のダルシャン(拝謁)に訪れた、子供のように純粋無垢で汚れのない聖者サナカとサナンダを門前払いにするという無礼を働きました。なぜなら、二人の聖者は何も衣服を身に着けておらず、ただの子供のように無知だと考えたからです。 しかし、二人の聖者は、神は三属性(浄性・激性・鈍性)を超越し、自分たちも同じように三属性も肉体意識を超越しているから、ヴィシュヌ神のダルシャンを受ける権利があると抗議しました。 それでも、ジャヤとヴィジャヤは、裸のまま聖者を中に入れることを許しませんでした。門番の無礼に激怒した聖者サナカとサナンダは、ジャヤとヴィジャヤをヴァイクンタから追い出し、羅刹に生まれ変わるよう呪いをかけました。聖者の呪いは絶対でした。門番の二人は、聖者に許しを請い、ヴィシュヌ神に泣きつきますが、呪いは取り消すことはできませんでした。 二人は償いとして、羅刹として3度生まれ変わり、ヴィシュヌ神の敵となって激しい憎悪や怒りを口にしながら生き、ヴィシュヌ神の手によって死ぬことで天国に戻ることを受け入れました。 こうして、ジャヤとヴィジャヤは、恐ろしい悪魔のような所業を繰り返した、ヒラニヤークシャとヒラニヤカシプ、シシュパーラとダンタヴァクトラ、ラーヴァナとクンバカルナという羅刹の兄弟に生まれ変わり、ヴィシュヌ神の敵として激しい憎悪に生きて、ヴィシュヌ神の手によって死にました。その結果、天界のヴァイクンタに戻ることができたのです。』
この話には続きがあります。ラーマ神に殺されたラーヴァナの最期は、激しい憎悪の青白い炎とともにラーマ神と1つになったと言われています。シシュパーラの最期も、激しい敵意のままクリシュナ神に吸収されていった美しい光景を、パーンダヴァ5兄弟の1人ユディシュティラは目撃し、非常に驚かれたそうです。そのような類まれな光景の意味を、天界の聖者のナーラダは解き明かしました。
『人は恋慕、信仰、恐れ、愛着、敵意、憎しみなど、いかなる想いによってでも、絶えず神を自分の心に結び付けるように努力すべきなのです。そうすることで、神以外、何も知覚しなくなり、神と1つになります。たとえ敵意によってでも、常に神を想い続けたのなら、彼の罪を清められて、容易に迅速に神を獲得することができるでしょう。』
私たちは、善い心・善い言葉・善い行為を実践し、悪い人たちや悪い行為を忌み嫌います。それは、正しいことでしょう。
だけど、『ジャヤ・ヴィジャヤの物語』は、その善と悪にの2元性を超えた、純粋な神性の意識にたどり着かなければならないことを伝えています。なぜなら、神は、善も悪も、敵も味方も、超えた存在だからです。
ありがたいことに、神に近づき、神を獲得するには、信仰でなくても敵意でも怒りでも憎しみでも大丈夫だと聖典は宣言しています。
ですから、これを使わない手はありません。絶望の淵に突き落とされ苦しみ悲しんでいる方、生きる意味を無くし死ぬことしか選択肢が残されていない方は、「なぜ、こんなに苦しめるんだ!生きる意味なんてあるのか!もし神が存在しているなら、目の前に出てこい!」と叫んでみてください。私の経験上、想いと言葉が真実であれば、必ず神様が現れます。
この世のすべてのドラマには、必ずクライマックスがあります。真・善・美に彩られた神のドラマなら尚更、至福と平安に満ちたクライマックスが訪れるのには間違いありません。私たちはただ、神に全託して、忍耐して待たなければならないのです。
『動機は、憎悪でも愛でも、欲望でも嫉妬でも怒りでも、自我でも全託でも、感情がどんなものであっても、主なる神の御名を絶えず覚えているのならばそれで充分なのです。神の名前と姿形を絶えず想っていれば、その人は必ず解脱します。 - サティヤ・サイババ -』
愛と優しさをいっぱいありがとうございます!