バガヴァッド・ギーター 第18章65・66節の核心
全世界のシヴァナンダヨガのアーシュラムやセンターで行われるサットサンガ(バジャン会)の締め括りのアルティの最後に唱えるバガヴァッド・ギーターの最重要な一節、サンバダルマン・プリッティアージェー・マーメーカン・シャラナム・ヴラジァー・・・、この教えの深淵な意味と実践方法をバガヴァン・シュリ・サティヤ・サイババがわかりやすく解き明かしています。
『 「バガヴァッド・ギーター」を、単にクリシュナとアルジュナの対話と見なすべきではありません。それは、心の中にある人間と神との果てしない対話なのです。すべての人間の心の中にある神との果てしない対話なのです。アルジュナが揺るぎない心でクリシュナの「声」に耳を傾けたように、すべての人間は心の奥底から湧き出る言葉や忠告に、真摯な精神で耳を傾けなければならないのです。この注意力の精神が向上すれば、人間が神格に到達することは可能です。』
(『SUMMER SHOWERS IN BRINDAVAN 1979』 The Inner Dialogue P.64)
『完全な解脱は非常に望ましいことですが、それを実践できる人はごくわずかです。ある精神的な教えが普遍的に受け入れられるためには、日常生活やその活動の中で誰もが実践し、経験できるような規律が必要です。 最高のダルマ(正義、遵守すべき義務)とは、各人が自分自身のダルマに大胆に従うことです。この問題については、宗教と道徳の間に矛盾があります。「それは困難であり、危険に満ちている(Gahana karmanogathih)」と、主は道徳的規律について述べています。どの行為が正しくて、どの行為がそうでないのか。どの行為が道徳的に認められ、どの行為が認められないのか?人々はこれらを決めるのに苦労してきましたし、今も苦労しています。しかし、次節でクリシュナは、どのような行為がふさわしいかについて言及しています。
" Manmanaa bhava madbhaktho madyaajee maam namaskuru. Maam evaishyasi sathyam the prathijaanee priyo si me. (Bhagavad Gita Chapter 18, Section 65)
Sarva dharmaan parithyajya maamekam sharanam vraja. Aham thvam sarva paapebhyo mokshayishyaami maa suchah " (Bhagavad Gita Chapter 18, Section 66)
『あなたの思いを私に定めよ、私に献身せよ、私を崇拝せよ、私に敬愛せよ。そうすれば、あなたは私に到達することができる。真理をあなたに告げよう、あなたは私にとって大切な人だからだ。これは私の教え、私の恩寵である。これは、私に至る道である。』 (バガヴァッド・ギーター 第18章65節)
『すべてのダルマを放棄し、私に全託しなさい。悲しむことはない。私は、あなたのすべての行為の結果からあなたを解放しよう。』 (バガヴァッド・ギーター 第18章66節)
ああ!これらの文節の意味と意義に注目してください。この全託の行為は、あなたを救い、世に入り、世に留まり、世を去るという循環からあなたを解放するのに十分ではありませんか?主があなたに求めていることは、ここにあります。
すべての存在の中に主を見ること、存在のすべての瞬間に主を意識すること、そして、この意識による至福(アーナンダ)に浸ることです。また、彼への深い献身と愛によって引き起こされる関係に融合することです。そして、すべての行為、大小を問わず、彼、クリシュナに捧げることです。願い、意志、態度、活動、果実、結果、最初から最後まですべてを捧げます。最後に、自己へのあらゆる執着を放棄し、礼拝的な無執着の精神ですべての行為を行うこと。これこそ、主があなたに求めているものです。
もちろん、この完全な全託を実現するのは難しいことです。しかし、もしあなたがそれに向かってわずかでも努力するならば、主ご自身が最後までそれを追求する勇気を授けてくださるでしょう。主はあなたと共に歩み,友としてあなたを助け,導き手としてあなたを導き,悪と誘惑からあなたを守り,あなたの杖となり,支えとなってくださいます。とおっしゃっておられます。
『この行動指針に少しでも従えば、恐怖から救われることでしょう。』 Swalpamapyasya dharmasya thrayathe mahatho bhayath.
『ダルマに従うことはそれ自体が喜びの源であり、それは最も困難の少ない道です。』 これは主の教えです。
『あなたは私に近づき、私に到達するでしょう』(Maamevaishyasi)
つまり、あなたは私の神秘を理解し、私の中に入り込み、私の本質を獲得するのです。この言葉には、神性を獲得すること、神の中に存在すること、神と一体であることが示されています。あらゆる存在の中にある神性を悟るという状態に到達したとき、あらゆる知識の道具がその神性の経験をもたらし、それだけを見、聞き、味わい、嗅ぎ、触れるとき、人は間違いなく神の体の一部となり、神の中で、神とともに生きるようになります。自分の進歩のためにこの義務を負うとき、あなたはまさに最初の一歩で新たな力を得るでしょう。
このダルマは、人々の中の特別な人にだけ定められ、推奨されているのではありません。すべての人が神を渇望し、すべての変化の背後に何か基本的なものがあることを発見するための識別を持っているため、それはすべての人の手の届くところにあります。最も凶悪な罪人であっても、苦行の悔い改めで主に全託することによって、すぐに心を清め、純粋になることができるのです。
したがって、主の命令は、各人が自分のために定められた特別なダルマを追求すること、各人が自分の文化の霊的基盤に従って人生を計画すること、各人が「客観的」ビジョンを放棄し、神の声に耳を傾けることです。』
(『Gita Vahini』Chapter1)
『 真の修行者は、主が話された神聖な言葉の中に、貴重な真理を見出すことができます。
『すべてのダルマを捨て、私にのみ身をゆだねよ。私はあなたをすべての罪から解放しよう。』
(Sarva dharmaan parithyajya Maam ekam saranam vraja; Aham thwam sarvapaapebhyo Mokshayishyami, maa suchah)
このように主は言っていますが、「すべてのダルマを捨てなさい(sarva dharmaan parithyajya)」と言い、「すべての行いを捨てなさい(sarva karmaan parithyaja)」とは言っていないことに注意しなさい。では、この言葉はどういう意味なのでしょうか。
それは、「ダルマと非ダルマの議論に巻き込まれたり迷ったりせずに、主の栄光のために主が命じられたすべての行為を行いなさい」という意味です。
あなたは、自分が獲得すべきものは何もないと知っています。なぜなら、あなたは主に全幅の信頼を置き、主への捧げ物としてのみ生きているからです。それでも、ジャーナカ(自己実現した王で、シーターの父、ラーマの義理の父。彼の祖先は偉大な皇帝であるニミ)や他の人々のように、世界の幸福のための活動に従事しなければならないのです。
すべての存在に内在する魂は、あなたの中にあるアートマあるいは魂と区別されるものではありません。ですから、すべての生き物の幸福を促進することに熱心になりなさい。このために経典が命じているすべての行為を、その果実に目を向けず、献身的な精神で行いなさい。これが真の行為の果実の放棄(ニシュ・カマ・カルマ)なのです。
ギーターをよく理解し、その教えを守り、行為の果実を放棄する姿勢を確立しなさい。すべての職務を、神への礼拝行為、供物として行いなさい。それが唯一の仕事です。あとは果実、結末、結果を神に任せなさい。そうすれば、あなたはハリ(神、ヴィシュヌ神)の恩寵を受け、地上での生活が神聖化され、価値あるものになります。 ダルマの道を歩む者には、さまざまな困難があっても、究極の勝利が約束されているのです。』
(『Gita Vahini』Chapter27 )