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お遍路ウォーキング日記(172:五十八番仙遊寺へ)
【2024年6月25日(火曜日) Day 172】
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札所五十七番栄福寺を打った。栄福寺は今治の町外れにある小さな山寺だ。とりわけ印象は薄く感じられるが個人的にはドキュメンタリー映画の撮影に居合わせたり、別の時にはバイクで来た僕を親切に誘導案内してくださったりと実に好印象だ。
だいたいが夏の暑いときに来ているので常に緑の多いイメージもあるが、真冬に来たときもある。
こぢんまりとした本堂、薬師堂がともに歴史を感じさせる堂々とした佇まいを見せる一方で最近新しく建てられた寺務所は非常にモダンなデザインでこの新旧のコントラストも他の寺にはない見どころだと思う。
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今日はこの栄福寺について簡単に書こうと思う。この寺の開創は弘法で、付近の海難事故を沈める護摩行を府頭山で行い鎮めた。その際阿弥陀如来の影を見たところから阿弥陀如来を本尊として府頭山の山頂に堂宇が建てられたという。
また時同じくした9世紀に大和の僧が大分にある宇佐八幡の霊告によりその分社を山城にある男山八幡として建立させるために移動中海難に遭ってこの地に流れ着き、本尊の阿弥陀如来が八幡大菩薩の本地仏だったことと、何よりも見た目に山城の男山と府頭山が似ていたことから境内に石清水八幡宮という社殿を建立した。
話は札所五十五番の南光坊と同じで神仏習合の時のまさに神道と仏教が融合した寺院が作られたということで、このあたりを理解するには南光坊の時と同じで昔は神道の神にあたるものが仏教の菩薩や如来として呼ばれることは日本中に数多くあった事を再確認する必要がある。平たく書けば昔と今とじゃ神様仏様も違うってこと。現代との乖離を産んでいるのはまだ比較的最近の明治に始まった神仏分離により強制的に融合されていた神仏が引き剥がされたからだ。
南光坊の時には書き忘れたがこの神仏分離は法律によって制定され行われたことだ。なので今でもそれは続いていて仏教寺院は各宗派各寺院ごとに宗教法人として登録管理され、神社は同じ宗教法人でも神社本庁で統括し管理されている。なお神社本庁は庁とはいっても国の機関ではない。宗教法人だ。
話を元に戻すがこの神仏習合の寺は石清水八幡宮の別当寺として札所五十七番の役割も務めていた。簡単に言えば石清水八幡宮グルーブの栄福寺という会社が札所サービス部門を担当していたと言うこととなる。
それが明治に入ると違法だという行政指導の下栄福寺グループが石清水八幡宮グループと分離し、阿弥陀如来が栄福寺グルーブの本尊となった、と言う風に解釈すれば良いのかも知れない。
なおこの栄福寺は神仏分離の際に現在の場所に移され、石清水八幡宮は栄福寺横のあの急坂を登り切ったところにある。
現在歩き遍路道で次の札所五十八番仙遊寺に向かう際、最短ルートの犬塚池の脇を通る道は工事中で通れず、車のルートでもある大山積神社の脇を通る道しか通れなくなっている。この措置は令和七年度末まで続くらしい■