義務と権利
【日記#69 2024/10/28(月)☂️】
今日は話の内容から若干の否定表現が混ざってしまうことを先にお伝えいたします。
昨日の衆議院選挙は一日中外出していて帰宅してから開票速報を見た。投票に関しては昨日の早朝に済ませていたが、今回は誰に票を入れたらいいのか、また同時に行われる最高裁判事信任投票も誰を信任し、誰は不信任にするのかもちゃんと調べて準備をする。
僕は高校生の時に開票速報の面白さを知ってしまい、選挙権をもらうのがとても楽しみだった。その頃の開票速報というとデータの集計も出口調査もまだ今より遅れていて、当確が出るのはある程度開票が進んでからだった。それぞれの選挙区の開票状況をある程度繰り返しそこから当確が現れ始める。そんな開票速報の本来の姿があったように思える。
なので帰宅して開票速報を見たときにはすでに与党の劣勢が数字として表れていたのはなんとも違和感を感じてしまう。
投票をする資格は「投票権」といい、字の通り投票をする権利だ。権利だから然るべき時に行使するもので、それは義務ではない。しかし投票をしないということは国政と関わりを持たない、無責任な姿勢を保つことでもある。もちろん権利なのだから棄権をしてもかまわない。しかし民主主義の国家では国の方針に直接国民が関わることができるのは選挙だけ。なのでできるだけ棄権は避けて投票をするように心がけている。すなわち国政に参加をするのが選挙であり、それに参加をするのは国民としても理想だと思う。
考えてもみれば中国には選挙はない。つまり国民は国政から見たら蚊帳の外だ。さらに北朝鮮では何か言おうものなら命さえ保障されない。
国民が弾圧されているようなロシアだのベラルーシのような国では選挙はあってもそれは国によって歪められて国民の思いはいつだって蔑ろにされる。国政に関わりたくてもそれが叶わない人は相当数いるのに、我が国ではそれが可能でありながら国民の方からそれを拒むのは勿体無いような気もする。
本来は投票をしないという行為についていろいろと書きたいが今日はそれは控えておく。ただこれだけは言っておきたい。
投票を棄権するのなら国政及び与党と野党のすべての方針について文句は言ってはいけない。
何事もそうだが最近は義務を果たさずに権利ばかりを主張するアホが多すぎる。そういった根性の人間が増えるからカスハラのような迷惑行為も増えてくる。権利を主張するのは間違ってはいない、しかしそれに見合った義務をしっかり全うしているのかどうか、自分のことばかりではなく相手の立場になって考えられるようになれたら良いと思う■