療養日記 2022年1月26日 『面倒な作業』
今日も全く外には出ていない。昨日よりもちょっとだけ身体は楽だったと思うが、昨日と違って面倒くさい書類を書かなければならずそれに半日以上時間をかけていた。具体的な事は書かないがこれまでの自分の病状を最初からすべて書かなければならない。病歴と通院歴を合わせたものをかかった医療機関ごとに分けて書かねばならなく非常に面倒くさい。
その他に何かしただろうか。何もしていないような気がする。今日は妻がテレワークの日でチャンネル権を完全に奪われてしまうためほとんど部屋に引きこもりっぱなし。
昨日の日記で大船駅周辺にお昼でも食べに行こうと思っていたと書いたっきりオチを書いていなかったが、実は昨日大船駅南口の交番すぐ裏で火事があり、亀屋万年堂という和菓子屋とかんのん食堂というお店がすっかり焼けてしまった。こちらのラーメン紀行で紹介した「豚山 大船店」はその焼けた二軒の道路向かいでその道も車が一台通れるくらいの狭い道。亀屋万年堂にはお世話になったことはないが、かんのん食堂には行ったことがある。お座敷率の高いくつろげる落ち着いたお店だった。再開できるのかとても心配だ。ちなみにこの火事、亀屋万年堂からの出火だったらしい。しかしこの大船駅前の顔のようなお店が焼けて地元、特に鎌倉の人は大いに肩を落としている。
昔は大船の南口にあるこの食堂から北口にある大船観音が見えたのだろうと思われる。大船観音はとても大きなランドマークで、太平洋戦争の時も南からやって来た米軍機がこの観音像を目印にしてこれより手前では爆弾を落としてはいけないというルールがあったと聞く。観音像の手前で爆弾を落とすことは鎌倉を爆撃する事で、米軍もそれは絶対にしてはいけないと決めていたそうだ。
観音像を通過すればそこは戸塚で、そこより先は横浜市内のため爆撃可能だったらしい。故に横浜大空襲の時も爆撃タイミングの目標として大船観音が利用されたという話だ。当時観音像を通過して戸塚に入っても海軍病院くらいしか大きな施設はなく、もう少し先まで飛んでから爆撃をしたのだろうと考えられる。その海軍病院が戦後国立横浜病院となり、さらに10数年前から横浜医療センターとなった。僕はそこに入院していた。ま、どうでもいい話だったか。今でも地元のお年寄りはこの医療センターのことを海軍病院と呼んでいる■