お遍路ウォーキング日記(142:四十四番大寶寺へ ⑤)
【2024年5月26日(日曜日) Day 142】
今日もだいぶ先に進み、国道279号線が280号線と分離し、北に進路を取ってさらにその先県道42号線に入るところまで進めた。
この先まずは三島神社という神社の脇を通り、歩き遍路道を進み(車の道だとかなり遠回りする)下狩場峠を超え、その先の宮成バス停あたりで県道からはずれて更に山深く進み鶸田峠(鴇田峠とも書く)を越えると久万高原町の中心に出る。
アプリ「お遍路ウォーキング」ではこのルートをたどるが、僕はバイク遍路だったので国道380を通る所謂「真弓越え」ばかりでアプリが指し示すルートは当然のこと通ったことがない。
ところで少し前の日記で団体お遍路様御一行の事を書いて、また詳しく書くとその時に書いたいたのを思い出してネタのない今日なら良いかなと思うので異質に見える団体お遍路ご一行様の話をしたいと思う。
簡単に書けば観光バスツアーの四国巡礼のことで、旅行会社によって様々なものがある。細かく区切り打ちにして5〜6泊くらいのものから二国分、40ヶ寺程を一気に打つなんていうタフなものもあるらしい。
彼らは観光バスで巡礼をするので楽と言えば楽だ。それこそ寝て起きて次の札所に着きましたなんて感じだ。しかし年配の方が多くて普通に巡礼しろと言われてもお金や時間はあっても体力はないという方にとってはありがたい手段である。
あの観光バスにはツアコンの他に「お先達様」というガイドのような、ちょうどこの日記で言えば著者の僕のような存在がその役割をしている。札所のガイドから巡礼の作法まで色々と教えてくれる経験者が同乗している。厳密に言えば四回の結願が終われば先達になる最低条件は満たされる。つまり緑札の人からは先達になれるのだ。
ツアコンは主に使い走りと乗客の人員点呼や世話、先達は乗客の言うなれば教育役も務める。そして常々思うのは先達の技量でバスの中の団体がただの俗物衆生の寄り合いになるかお遍路様になるか決められる事だ。
先達は経験から得た話から各札所の寺伝や巡礼にまつわる話、裏話など話題は豊富だが、面白く話さなければ乗客はついてこない。また作法などはある程度厳しく教えなければ本当に迷惑な爺婆の寄り合いになってしまう。すると家族や個人で巡礼をしている人達の邪魔になる。ここんとこハッキリ書く、邪魔だ。
これが優れた御先達様がつくと本当に動きまでもがピシッとする。お堂の前にゾロゾロと団子になったり、お経も唱えずに大声で談笑したり勝手に違う場所へ行ってしまったりなんて事は絶対に許さない。
蝋燭だって上から立てるし、お線香も香炉の真ん中から立てる、ちゃんとマナーが守れる団体お遍路様をピシッと引き連れる御先達様というのをよく見かける一方。なめられた先達は統率力もなくただただ境内に猿を放すようなものだと思うのまで様々。
先達が丁寧に読経をし、一緒になって団体お遍路様も読経をしている間、こっそりと別行動をとるのがツアコンだ。
彼らは参加者の納経帳や掛け軸、笈摺をすべて持ってまずは納経所へダッシュする。夥しい数の納経帳などに全て御朱印を押さなければならないので団体お遍路様がやってくるとそれぞれのお寺の納経所は戦場となる。そしてツアコンは主に掛け軸にドライヤーがけをしていて個人の遍路とは目を合わせようともしない。中にはできた人もいて、
「お先に失礼しています。」と言う人もいる。
団体様のおかげで納経所で待たされたなんて経験のある人は多いと思う。団体対策は団体様がゾロゾロとやって来るのを見て慌てて納経所に駆け込んでも時既に遅しだ。
まずはダッシュでやってくるツアコンは必ず風呂敷に掛け軸や納経帳などを包み持っているか、大きなバッグを背負っているか、とにかく目立つ。見かけたらツアコンよりも先に納経所に駆け込むしかない。しかしそれだって読経を途中でやめるとか常識はずれな事はすべきではない。
僕の場合は大師堂を打つ前に団体様の気配を感じたらまずは納経所へ駆け込んで、
「団体様がお見えになるようなので申し訳ありませんが続きはまた落ち着いてしますので。」
などというような断りを入れてツアコンよりも先に滑り込むようにしていた。
自分が寺に着いたときには既に団体様であふれかえっていた場合は普通にお詣りをして納経所へ行くと既に団体様の御朱印は終わっている事が多かった。こんなタイムラグも何となくわかるようになる。
また読経などをしているまさにその時にツアコンに負けてしまった時でも納経所へ行くと個人優先で御朱印を書いてくださる納経所は多い、というよりもそれが普通でもある。
先達が団体お遍路様と丁寧に読経するのは時間稼ぎである。ある程度の時間を稼いでおかないとお詣りが全て終わって観光バスに戻ってもすぐには出発できないという事になるからだ。
なので色んなタイプのお遍路を見てきたがバスでやってくる団体お遍路様御一行がもっとも時間をかけて丁寧にお詣りをしている。中にはそんな時間すらガマンできないで大声で騒ぐバカもいるにはいるが、彼らの大半は本当に熱心にお詣りをしていると思う。というのも平均年齢も高いし彼らも必死だ。何がなんでも極楽浄土へと行くためならば努力の一つも惜しまないからだ。
これは冗談で言っているわけではなく、ちゃんとした先達がピシッと統率した団体お遍路様御一行は凄いと思う。
緩んだ団体お遍路様がよくやるのは大事な金剛杖を札所に忘れてしまうこと。巡礼をして一緒について来て下さる弘法大師を置き去りにするのも気が緩みすぎじゃないのと呆れる。
こう言ったことも先達がしっかりしているかどうかでだいぶ違ってくると思う。
そこいくと団体ではない遍路の中にはスタンプラリー感覚で御朱印集めをしている人や、明らかに掛け軸作りでお詣りもせずに納経所に直行して御朱印をもらうとさっさと立ち去るちょっと罰当たりな輩までいる。
もう一つ敢えて書くが車やバイク、自転車で移動する人が歩いている人と同じなわけがないだろうと特に歩きの人は見下す傾向にある。歩きの人だけに見られるこの一種の驕りも何のために巡礼してるんだろうと思う。
1つには歩きの人にしかわからない孤独と苦痛があり、それは想像を超えているはずだ。しかしその苦痛なくして巡礼にはならないと思う人が多いように感じられる。ハッキリ言えばそれは勝手に苦しんでいるだけで折角の苦行が己を貶めている事の現れだ。
また歩きの人は圧倒的に他の人達よりも親切にされてお接待も多く受ける。これがそのうち当たり前でお接待のないことに不満を感じたりお接待を要求するようになってくる。こう言う傲慢な態度はたいてい歩きの人だとどこかの先達が書いたエッセイにあった。
言うなればちやほやされて有頂天になりやすいのも歩き遍路の特徴だという。
バスで楽々移動をしても信心を忘れず丁寧なお詣りを心掛ける団体お遍路様と、ちやほやされて有頂天になり、お接待されるのが当たり前だと思うようになった歩き遍路なら前者の方が充実した巡礼の旅をしていると思う。
長々と書いたが巡礼はスタイルじゃないし、優劣なんてものもない。あくまでも心掛けだ。その手段が辛いか辛くないかは問題ではない。昔の遍路は誰もが歩いて巡礼をした。だから歩いている人がそうでない人よりも偉いなんていう歪んだ考えは現代の巡礼の新たな問題だと思っている。
遍路として功徳は積んだが、心は以前よりもさもしくなってしまったのでは苦労して巡礼をしても何が残ったのだろうと傍から見た人は思うはずだ■