お遍路ウォーキング日記(107:三十九番延光寺へ)
【2024年4月20日(土曜日) Day 107】
今日は外出をしてかなり歩き、帰って来たところでちょうど札所に到達。札所間四国八十八ヶ所最長の行程を13日かけてようやく到達させることができた。普通の歩き遍路の場合は3日から4日かかるがこの日記では13日がかり、その分いろんな場所を細かく紹介できた。
一周目から思っていたがこの日記は普通の人のお遍路日記よりも内容が濃くてガイドの役割も僅かではあるができていると思っている。と言うのも200日以上もかけて途中どこかで長期滞在もせず四国を巡礼する者など誰もいないからだ。
二周目に入って定期的にご覧いただく方もいらしてやる気も出てきた。ご覧いただいた方はたとえ一度でもいいねをいただければ励みになるし、巡礼に興味のある方やこれから巡礼をしようとお考えの方が見ていると思うと多少緊張もするものだ。
さて、そんなわけで今日は四国札所最南端の金剛福寺を打ったのでこの寺について簡単に書こうと思う。
この寺は弘法が唐にいた時、故郷に向けて五鈷杵(密教で用いる仏具)を投げたものがこの地に届いたという話から始まる。唐から戻ると足摺岬に補陀落の世界を感じたという。補陀落とは観音菩薩が降臨する場所の事を指す。
弘法はこのことを嵯峨天皇に話すとそれでは補陀落の門となる寺を建てよと勅命を受けてこの地に寺を建立した。それが金剛福寺の始まりだという。
後にこの寺は補陀落信仰の地となる。これは海の向こうに極楽浄土があると信じて船を出すことで、沖縄のニライカナイとちょっと似ている印象を受けた。他にも皇族やこの地の豪族九条氏(のちに中村の一条神社の名前にもなる一条氏)などの信仰や支援を受けて寺は栄えたが長宗我部の頃に荒廃する。
その後江戸の時代には藩主山内家により再興されて現在に至るという。
この寺は他の札所とは全く違う雰囲気を持つ。まずこの寺の背後にある森の木々は南国の植物が多く、それだけでも明らかに違うと感じられる。この違いは行ってみればすぐに分かることだ。それだけこの寺のある足摺岬は南に突出している。崎から遠くを見ればこの海の向こうに何かがあるに違いないと昔の人が思うのも納得がいく。
また弘法の五鈷杵の話については唐から独鈷を投げた札所三十六番青龍寺の話とよく似ている。当たり前だが唐から何かを投げて日本まで届いたら超人だ。しかしそのくらいの伝説が生まれるのは弘法くらいなものだと思う。
金剛福寺を打つと次は三十九番延光寺だ。まずは元来た道を下の加江まで戻り、そこから三原村を通っていくのが歩きの遍路道。車やバイクの人は眺めの良い竜串を通り大月町経由で行くサニーラインを通るルートの方が美しい景色を楽しめる。
アプリ、お遍路ウォーキングはもちろん三原村経由のルートで進むのでまずは数日間かけて下の加江まで戻る。これを打ち戻しと言う。打ち戻しは他にも何カ所かあるが下の加江までの打ち戻しが一番距離があるのではないだろうか。通常だと下の加江で1泊し、翌朝出発して金剛福寺を打ち、また戻ってきてもう1泊するものだと思う。
まずは下の加江を当面の目標として次の札所延光寺を目指すこととなる■