お遍路ウォーキング日記(94:三十八番金剛福寺へ)
【2024年4月7日(日曜日) Day 94】
今日漸く札所三十七番岩本寺を打った。結構な時間を要したと思うが次の三十八番金剛福寺への道のりはそんなレベルではない。歩きだと85㎞以上、車だと95㎞以上の距離だ。この日記のペースだとほぼ一ヶ月は要するかも知れない。
札所三十七番岩本寺は四国八十八ヶ所の札所の中でも特異である。それはこの寺には本尊が五体ある。通常の寺の場合御本尊は一体だ。
この岩本寺は聖武天皇の時代、行基菩薩が勅令を受けて開創したものと言われている。その時は七福寺と呼ばれていた。後に弘法がこの寺に五つのお社を設け、それぞれに御本尊を祀って福円満寺と寺号が変わった。この寺が今の岩本寺の始まりでもある。当時は仁井田川のそばにあったらしい。
やがて嵯峨天皇の勅願寺となると仁井田五社十二福寺と呼ばれるようになり、福円満寺は別当として札所になる。
仁井田五社十二福寺は勅願寺として栄えたが、十六世紀に兵火で全焼してしまい、後に足摺山主により復興する。
この頃岩本寺は福円満寺の宿坊だったが高僧により岩本寺という寺号を授かる。そして福円満寺の衰退により別当は岩本寺へと移され五社大明神岩本寺として札所を引き継ぐようになった。
こうして衰退と復興を繰り返した仁井田五社十二福寺も明治の神仏分離と廃仏毀釈の難からは逃れられず高知県の令によって廃寺にされ、十数年後に別当だった岩本寺が五社すべての本尊を引き継いで復興し現在に至る。
今も岩本寺には宿坊が残っているが、この寺伝が宿坊が残る理由かどうかはわからない。ただ令和の時代になり四国札所の宿坊は激減している中、岩本寺の宿坊は貴重な存在でもある。
岩本寺のそもそもの本尊は以上のような寺伝があり弘法が祀ったものだという説とは別に、そもそもこれらは仁井田川(もしくは四万十川)流域の土着の神だったものが仏様となった「本地垂迹説」も存在している。即ち弘法が祀ったものはもともと土地に存在した神々だったのではないかと言う説だ。
それだけ一ヶ寺に五つの御本尊というのは目立った存在だ。ちなみに岩本寺の御本尊は不動明王、聖観世音菩薩、阿弥陀如来、薬師如来、地蔵菩薩である。そして寺を打つときはそれぞれの御本尊の光明すべてを唱える事になっている。この御光明は他の札所でも何を唱えるんだっけと迷うこと度々だが、ちょっと値段のいい経本ともなると札所ごとの御光明がしっかりと記されている。特にこの岩本寺では役に立つ。
このお寺の本堂は昭和53年に新築されているがその際に天井絵が新たに寄せられている。これが実にユニークで有名なルノワールの絵の模写やマリリン・モンローの絵などがある。このお寺を打つときは忘れずにご覧になってもらいたい。
このお寺は窪川の町のほぼ真ん中に位置し、山門前の和菓子店がお茶のお接待をしてくれた。(僕が巡礼をしていた頃はお接待があった)
これからしばらくの間札所三十八番金剛福寺を目指した巡礼日記が始まる■