お遍路ウォーキング日記(162:五十四番延命寺へ)
【2024年6月15日(土曜日) Day 162】
今日はかなり歩いたと思うがそれでもまだ松山市からは出られていない。
実は松山市は平成大合併の時に隣の北条市を編入合併していてかなり北の方まで松山市である。大きな都市となったのもあまり知られていなければ今や北条市も存在しないと言うこともまた知られていないことだと思う。それでは北条市なき後の愛媛県北西部はどうなったのかと言うと松山市と今治市が隣り合わせになっているのだから驚きだ。
その間には北条市を含めていくつかの町があったはずなのに今は一つとして存在していない。北の方はみんな今治市となってしまった。
現在地はそんな松山市と今治市の市境の近くにまで来ている。
今日は昨日打った圓明寺について簡単に書こうと思う。圓明寺は松山市北部の和気町にある小さな町寺だ。和気は昭和大合併以前に松山市に編入されたがそれ以前は温泉郡和気村という海沿いの漁村だったという。
その後に何度か兵火により焼け、17世紀の元和年間に現在の場所へと移転。現地に住んでいた豪族の須賀専斎重久の支援にて復興。山号を「須賀山」と改めた。
この寺は聖武天皇の勅願により行基菩薩が本尊を彫って開基した。当時はもっと海沿いにあったという。後に弘法が荒廃していたこの寺を立て直し一時は大きな寺だったという。
この寺には米国人遍路が発見した17世紀の銅板で作られた納め札がある。また「キリシタン燈籠」という十字架に似た燈籠があることでも知られている。こっそりとキリスト教を信じる者にも救いの手を伸ばしていた事実がうかがい知れる。札所の中で他宗教との関わりのあるのはこの圓明寺だけだと思う。
しかしこの圓明寺を見ていると本当に他宗教には寛大だ。同じ仏教寺院であっても他の国にはまずこんなものはないだろう。それは日本の元々の神道と仏教があまりにも融合しすぎた「神仏習合」が徹底されているからだと思う。他宗教にも寛大であわよくば取り入れてしまおうという日本人独特の思想はそもそも日本人が仏教ともピッタリとくっついて生活していなかったために仏教も神道も客観的に見ることができる能力を持ち備えているからだと思う。
以前もどこかで書いたと思うが日本人は無宗教ではなくて多宗教をよしとした民族で、どんな宗教であろうと自分の実になるものはどんどん取り込んでいくのだ。そして豊かな人間関係を築く術として日々活用のできる民族だと思う■
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