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アナログな言葉

【日記#171  2025/02/07(金)☀️】

 今日は昨日の話の内容をもう少し展開させ「雑哲学」をしてみようと思う。雑哲学という言葉自体この日記では久しぶりに出すが、自分は常日頃からいろんな事を雑哲して過ごす事が多い。雑哲学にスキルもテクニックもいらない。物事を思いつくままに横方向に考えていけば良い。

 昨日の日記の内容にも似ているのだが、詩人の間では時々「デジタルな言葉」と「アナログな言葉」の二つの言葉が登場する。言葉にデジタルやアナログなどと言うのは完全に比喩でしかないのだが、なんとなく言いたい事はわかるような気がする。

 実は昨日の日記でも書いた「客観問題」というのがこれによく似ている。選択肢を設けることによってそれを選んで答えるのが客観問題。この客観問題にはデジタルな側面がある。つまりそこには0と1の概念があって、それを選択することで正解不正解が決まるのだ。

 一方の主観問題にはピンポイントの正答など求めてはおらず、答えに多様性を求める場合には主観問題で質問する。これはまさにアナログの事を指す。

 デジタルには選択事項同士の間の中間点と言うものには目を向けないのに対し、アナログの場合には全てに平等に目を向ける必要がある。そのため評価と言う面ではデジタルは非常に速く評価を出しやすい。一方アナログは評価を出しにくいが、そのかわり深い評価が可能である。

 デジタルの世界では簡単に言えば小数点以下の数字がある程度で制限されてしまう。例えば大雑把なデジタルで言えば、1.1の次は1.2。そしてその数字の間には1.15だとか1.19などと言う中間的な数字は存在しない。もっと細かく処理することができたとしてもそこには限界がある。つまりデジタルの数字と言うのは、数が上がっても下がっても、階段の上がり下がりと同じなのだ。

 一方アナログは階段のデジタルに対して坂道であり、その上下には0と1の観念がない。

 例えば今ではもうすっかり廃れてなくなってしまったMDを例に挙げる。MDの音の悪さと言うのはデジタルのこの階段の部分が実に粗雑だったからだ。アナログが坂道だとすると、デジタルは階段。そしてCDの場合例えば隣のレベルまでに0.01刻みの段があるとすれば、MDはその5分の1ほど0.05刻みの段しかないと解釈するとMDの音の悪さがなんとなくわかるような気がする。

 具体的に書くとデジタルの録音と言うのは、音の周波数によってチャンネルが振り分けられていてその段数によって自然のアナログの音を再現しようとしている。先述のMDの場合はそのチャンネルの数がCDより少ない。なので、隣り合うチャンネルの音域の間にはCDでは存在してもMDでは存在しないチャンネルがある。さらに言えばデジタルに対してアナログ録音の場合には、すべての音が録音され再生される。それにより音に厚みを感じるのである。

 このデジタルとアナログの違いを言葉に当てはめるとデジタルな言葉と言うのは言葉の持つ意味に例えられている。つまりその言葉には一定の意味以外の可能性に乏しいことを指して言っている。

 身近なデジタルな言葉の例を挙げると注意文、警告文、マニュアルの文章など、確実に意味を相手に伝えたい時に使う言葉はデジタルでなければいけない側面もある。

 しかしそれは詩人の綴る詩と言う言葉ではない。取り扱いがデリケートな機械のマニュアルが詩のような言葉では話にならない。詩の言葉と云うのは逆に相当複雑な多面体でなければ深みが出てこない。それも受け取る側によって様々な解釈が生まれないと詩としては成り立たない。極端な話読み手が百人いれば百の内容が存在するような言葉、それがアナログな言葉である。

 なので詩を書く人がこれは詩なのだと主張する言葉には、何重もの意味が重なっていなければ詩としての味わいが生まれてこない。そういった言葉が書けるかどうかと言うのは、書く側のボキャブラリーの数よりも詩の偶発性をある程度読んで計算ができる能力が必要である。そこにはセンスもある程度必要だが言葉遣いの上手下手と、様々な言葉に対する「慣れ」と言うものを要求される。

 そしてこのデジタルとアナログと言う概念は詩に限らず様々なものに当てはめることができると思う。

 今の生活の中のありとあらゆることを振り返り、飽きを感じたり改善が必要だなと思うものには一度このデジタルとアナログの理屈を当てはめて考えてみるといいかもしれない。改善につながるかどうかは別として、まるで思いつきもしなかったようなアイディアがそこから生まれてくる可能性もあるだろう■

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