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アートと本とコーヒーと:ぼんやりした宝物

ずっと自分は「空っぽ」のような気がしている。

これまでずっと、取材したりインタビューしたりして外から得たことを自分の胃くらいまで下ろして原稿に書いている……そんな気持ち。とにかく、他人の話はおもしろい、だけどお腹は「空っぽ」だ。

それでも、たとえ、胃袋までであっても、外から入ってきたものに自分なりにカタチを与えるために「書く」んだなあと思いながら、ン十年。

いしいしんじ著「書こうとしない『かく』教室」(ミシマ社)。長年のわたしの「空っぽ」な感覚の理由が見えてきたような気がした。

ぼくたちはずっとことばを使って、ことばを交わして、ことばでいろんなものを自分の中へ収めていきます。それはいつしか、ことばの形をほどいて、意識の水底へ、ゆっくり沈んで目に見えなくなります。でもそれは消えないんですよ。目に見えない、ことばになっていない記憶や未来からの光が、じつはぼくたちの生を底から支えている。「かく」ことは、自分のほんとうの生を、ことばのかたちで取り戻すことにほかならないのです。

また、こんな文章も。

ことばになっていない、ふわっとしたままのものに触りたい。そのために自分のことばを使っている。

わたしが「空っぽ」なのは、外の刺激に心の多くを奪われ続けて、自分の中を駆け巡っているふわっとしたもの、ぼんやりしたもの、もやもやしたものを長いこと放置しているからなのかも。

これを掬い上げていくことにちゃんと向き合えば、ずっと大切にしてきた言葉で、「空っぽ」じゃない自分を感じることができるのかなあ。

ぼんやりー-で印象的だったのは、「ゲルハルト・リヒター展」。さまざまな作風で知られる現代アーティストの、このぼんやりした風景画がわたしには強く印象に残った。

たいてい、図録は展覧会の余韻を味わうためにパラパラとめくった後は資料として保存するのだけど、この図録は違った。手元に置いて何度も見返した。

よくわからないけれど惹かれてしまう、知りたくなってしまう……リヒターの作品は底が知れない感じがする。もしかしたら、これも、ぼんやりという宝。作家は投げかけ、そして、わたしは自身に問い続け、少しでも言葉の形で輪郭を得られれば……そう願いながらも、まだ、霧の中のような風景をたゆたう。

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