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軽やかに発信できるようになったのは、「賢く見られたい」という思いを手放したから

最近、軽やかに発信できるようになりました。わーい☺️

以前は、noteの記事やメルマガを書く時、平気で2時間くらいかかることが、たびたびあったのです。

でも、最近は、タイトルが思い浮かんでいたら、パッと書き始めて、そのまま30分くらいで書き終えることができます。(ちょっと盛りました。もっと時間かかることもあります)

YouTubeを撮るのも早くなって、1日に2本撮れることもあります。少し前までは、1本撮るだけでゼエゼエ言ってたのに。

何が違うんだろうか・・?と、
問いを立ててみたところ、

発信するときに批判的な目線がなくなっていることに、気づきました。

昔から、「間違ったことを言っていないか?」チクチクと監視するチームが頭の中にいまして、発信の時に、それらが顔を出していたのです。

昔はもっと存在感が強くて、発信しながら怒られているような感覚になったこともあったほどでした。

近年は、怒られるような感覚はなかったけど、「チェックされてる」みたいな感覚は、ずっとあったのです。だから、正しいことを伝えているか、文章の論理的な整合性は取れているか、気にしながら発信していて、時間もエネルギーもかかっていました。

でも最近、あたまの中に監視チームがいないのです。だから、伝えたいことがすうっと出てきて、言葉になり発信されていきます。


監視チームは、なぜ、いなくなったのか?

どうやら、心の中に根深〜〜〜〜く張り付いていた、「賢く見られたい」という思いがどこかへ消えてしまったようなのです。

なんで消えてしまったのか?、因果関係は、よくわからないです。竹富島へ行って、消えたのかもしれない。

気付いたら、知的であることへの変なこだわりというか、難しい本を読んだり考えたりしなければいけない気がする感覚が、普段から湧いてこなくなっていました。


「賢く見られたい(賢く見られなければいけない)」思いとは、子供の頃から、ずいぶんと長い付き合いでした。成績が悪いと家の中がお通夜みたいな雰囲気になっていたとか、家庭環境の影響はとても大きかっただろうと思っています。

長い付き合いで、根深い思い込みだったのですが、ふっと、消えてしまった。最近、カウンセリングなどは受けていないので、直接的に何が効いたのかは、よくわかりません。

本当に変化している時って、よくわからんけど、ふと気がついたら、前みたいな嫌な感覚がないなあ・・という感じなので、今回も、色んなことが積み重なって、ふっと洗い流されたのだろうと思います。


発信する時、「どう見られるか」「〜〜〜のように見られたい」という目線から自由な人って、ほとんどいないだろうと思います。

適度に、他者からの目線を想像できる方が、安全な面もあります。

でも、他者からの目線が「監視チーム」くらい厳しくなると、表現や発信が重たくなります。

少しずつでも、表現したい・発信したい思いを大切にして、小出しにしていると、じわじわと監視チームの存在感が小さくなります。ある時、ふっと、消えてくれる可能性もあります。(○○すれば消える、とは言えないけど)

重いのは、抑え込むから。

小さな小さな、「〜したい」を「する」積み重ねが、軽やかな表現、軽やかな生き方につながります。



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