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心を開いた先に・・・
彼女は、自分の内なる悲しみを隠しきれないまま、他人の苦しみを背負い込む役割を引き受ける人だった。それはまるで、暗い洞窟の奥深くで炎を絶やさず灯し続けるような仕事だ。光を必要とする者たちは彼女のもとに引き寄せられたが、その光が彼女自身を温めることはなかった。
「なぜそこまで自分を犠牲にするの?」と、彼女に問いかける人もいた。しかし、彼女は答えなかった。答えたとしても、それはただの言葉であり、実際のところ、自分自身でもその理由を理解していなかったのかもしれない。救う行為は、彼女の中にある空白を埋めるための癖のようなものだった。いつからそれが始まったのかも、いつ終わるのかも、彼女にはわからなかった。
助けを求める者の涙を拭うたびに、彼女は一瞬だけ、他人の悲しみの中に自分を埋没させる。その短い間だけ、彼女は自分の悲しみから目をそらすことができた。だがそれが過ぎ去ると、彼女の中には以前よりも濃い空虚さが広がるだけだった。まるで、砂漠に水を注いでもすぐに吸い込まれて消えてしまうように。
彼女の周りには人々が絶えず集まった。誰もが彼女を頼り、彼女の存在を感謝した。しかし、彼女の心の奥底で鳴り響く孤独の声を聞く者はいなかった。誰かが救われるたびに、彼女自身は少しずつ遠ざかっていく。誰からも救われることのない場所へ。
それが彼女の運命なのだと、彼女はどこかで受け入れていた。けれども、それが正しいのかどうかは、誰も教えてくれなかったし、誰にも聞けなかった。
そんな彼女を、僕は見ていてとても心配だった。いつも他人の悲しみを受け止めて、それを自分の中に埋め込んでしまう彼女の姿を見ていると、まるで透明なガラスの器が少しずつヒビを深めていくように思えた。時間の問題だ、と僕は感じていた。きっと、ある日突然、音もなく崩れ落ちてしまうだろう。
僕がそれを伝えようとすると、彼女は首を軽く振って、曖昧な笑みを浮かべた。彼女は言葉で説明するのが苦手だった。自分がどうしてそんなふうに他人を救おうとするのか、その行為が自分自身をどれだけ蝕んでいるのか、きっと考えたこともないのだろう。あるいは考えること自体を避けているのかもしれない。
「大丈夫よ」と彼女はよく言った。その言葉は驚くほど軽やかで、まるで乾いた秋の葉が風にさらわれるように簡単に消え去ってしまった。「大丈夫じゃないよ」と僕は思った。けれど、僕の言葉は彼女の前でうまく形をなさなかった。僕が言うべきことを探している間に、彼女はすでに次の人の悲しみを抱えに行ってしまうのだ。
5日、雨が降り続いた。僕は彼女が壊れてしまう夢を見た。まるで人間の形をした砂の彫刻が、雨に打たれて徐々に崩れていくような光景だった。目が覚めてもその感覚は胸に残り、どうしようもない不安となって僕を支配した。
彼女の部屋の前で僕はしばらく立ち尽くした。ノックをする勇気が出なかった。扉の向こうにいる彼女が、夢の中の彫刻のように崩れてしまっているのではないか、そんな気がしてならなかった。けれども、放っておくわけにはいかなかった。彼女を救いたかった。あるいは、少なくとも彼女が壊れていくのを見ているだけの存在にはなりたくなかった。
ノックの音が響く。僕の心臓の音と同じリズムで、扉越しに彼女の気配を探った。静寂が長く続き、その後で微かに足音が近づいてきた。扉がゆっくりと開いたとき、彼女の顔はいつものように微笑んでいた。その笑顔を見て、僕は安心するどころか、ますます不安になった。
「本当に大丈夫?」と僕は尋ねた。彼女は少し首をかしげ、まるでその質問自体が意味を持たないかのような表情を浮かべた。
「大丈夫よ」と彼女は繰り返した。その声はあまりにも静かで、雨音に吸い込まれて消えていきそうだった。僕はその言葉をどう処理すればいいのかわからなかった。ただ、彼女を見つめるしかなかった。彼女が壊れる瞬間を、何もできずに見てしまうのではないかという恐怖とともに。
僕は彼女と結婚することを決めた。それが正しい選択かどうかなんてわからなかったけれど、それ以外に方法はないように思えた。彼女が多くの人の悲しみを抱え続けている限り、彼女自身はいつか壊れてしまう。僕にはその未来が、まるで遠くの地平線に向かってゆっくりと進む嵐のようにはっきりと見えていた。
「僕だけに寄り添ってもらいたい」と伝えたとき、彼女は少し驚いた顔をした。けれど、その後で微笑んだ。彼女の微笑みはいつだって、心の中にしまいこんだ何かを覆い隠すためのものだった。それが優しさなのか、それとも防衛本能なのか、僕にはわからない。ただ、その微笑みが続く限り、彼女が壊れない保証にはならないことだけは確かだった。
彼女に負担をかけないと決めた。それは僕自身に課した静かな誓いだった。彼女の心を蝕んできた重荷を、少しでも取り除くために。彼女が何も背負わなくてもいい日常を、僕が作り出そうと思った。それは、僕ができる唯一の「救い」だった。
けれど、正直に言えば、僕が彼女と結婚を決めた理由はもっと単純だった。僕は彼女を愛していた。ただそれだけだ。彼女が誰かの悲しみを抱え込むことが好きだったわけじゃないし、それを止めるためのヒーローになりたいとも思わなかった。僕は彼女自身が好きだった。彼女が泣くときの静かな横顔も、彼女が笑うときの少しだけ影を落とす目も、彼女のすべてが僕にとっては欠けることのない風景だった。
「結婚してくれる?」と聞いたとき、彼女は少し間を置いて「うん」と答えた。その瞬間、僕は安堵したような、恐れを覚えたような、不思議な気持ちになった。彼女を守りたいという気持ちは本物だったが、同時に、僕が本当にそれをやり遂げられるのかどうか、全く自信がなかった。
でも、それでもよかった。自信なんて二の次だった。僕はただ、彼女と共にあることを選んだ。それが嵐の中であれ、静かな湖のほとりであれ、彼女がどこへ向かおうと、僕は彼女のそばにいる。それ以外の選択肢なんて、僕には存在しなかった。
彼女が僕の奥さんになったとしても、彼女が他人との関わりを完全に断つなんてことはあり得なかった。そんなことを彼女に求めるのは、太陽に光をやめろと頼むようなものだ。彼女は人と交流することで存在しているような人だった。他人の悲しみや苦しみを受け止め、それを自分の中でそっと折りたたんでしまう。それが彼女の生き方であり、彼女そのものだった。
僕にはそのことを否定する権利はなかったし、そんなことをするつもりもなかった。彼女が他人と交流を断ってしまったら、それはもう彼女ではなくなる。それでも僕は、彼女が少しでも軽くなるように、彼女が抱えるものの一部を引き受けたいと思っていた。たとえそれが彼女の本質を変えることができないと知っていても、僕にはその思いを手放すことができなかった。
結婚後も彼女は変わらなかった。近所の人の悩みを聞いたり、仕事場の同僚に相談されたり、知らない誰かのために時間を使ったり。僕が仕事から帰ると、彼女は台所で静かにお茶を入れながら、その日誰かの話を聞いたことを話してくれることがよくあった。
「今日はね、ある人が自分の子どものことですごく悩んでてね」と彼女は言う。彼女の話を聞いていると、それがどれだけ深刻な内容であれ、彼女自身がどこか無意識のうちにその重さを引き受けているのがわかる。それは彼女の優しさの証でもあり、彼女の脆さの証でもあった。
僕は時々、彼女に問いかけた。「君自身のことを話す相手はいるの?」と。彼女は少し笑って、「いるじゃない、あなたが」と言う。それは事実だったかもしれないが、僕にはそれが彼女の本音だとは思えなかった。彼女が本当に話したいことは、もっと深くに沈んでいるのだろう。それを彼女が話せる日が来るのか、それとも一生話せないまま終わるのか、僕にはわからなかった。
彼女の生き方を変えることはできない。それは僕にも彼女自身にもできないことだろう。ただ、僕が彼女のそばにいることで、彼女が少しでも自分自身を楽にしてくれればそれでいいと思っていた。彼女が僕の奥さんであることは変わらないけれど、彼女が世界と向き合い続ける限り、彼女は僕だけのものにはならない。それがわかっていても、僕は彼女を愛していた。だから、僕はそれを受け入れるしかなかった。
彼女は、まるで長年稼働し続けた古い機械が突然停止するように、人との交流を断つようになった。電話は鳴り続けていたけれど、彼女はそれに手を伸ばそうとしなかった。玄関先に人影が見えても、彼女はカーテンを閉じてその存在を遮った。彼女がそんなふうになる日が、いつか来るのではないかと僕はずっと思っていた。そしてとうとう、その日が来たのだ。
彼女は朝からずっとソファに座っていた。何かをするわけでもなく、ただ窓の外をじっと見つめていた。その姿は静かだったが、どこか不安定で、僕には触れるべきではない薄い氷の上にいるように思えた。僕は彼女に声をかけるべきか迷った。けれど、彼女が話し始めたのはその日の夕方だった。
「ねえ」と彼女は言った。声は驚くほど穏やかで、でもどこか遠い場所から届いてくるようだった。「私ね、ずっと誰かの話を聞いてきたけど、本当は誰にも話したことがなかったの。自分のことを。」
僕は黙って頷いた。それがどういう意味なのか、すぐには理解できなかったが、彼女が続けるのを待った。彼女が自分から話をすることなんて、これまでほとんどなかったからだ。
「小さい頃から、人のことを考えるのが当たり前だと思ってた。悲しい人がいたら助けてあげる。それが正しいことだって、ずっと思ってた。でもね、それを繰り返すうちに、いつの間にか自分がどんな人間なのか、わからなくなったの」
彼女の言葉は、まるで長い間閉じ込められていた空気が一気に外に吐き出されるようだった。その一言一言が僕の胸に重く響いた。彼女は、自分を犠牲にすることで他人を救ってきたけれど、その代償として自分自身を失ってしまったのだろう。
「人の話を聞くのは好き。でも、時々怖くなるの。自分が空っぽの容器みたいに感じるから。誰かの悲しみや痛みを受け止めるたびに、自分が少しずつ削れていく気がしてた」
僕は何も言えなかった。彼女の言葉は、どれも僕が聞きたかったことであり、でも聞くのが怖かったことでもあった。彼女が壊れてしまう前に僕は何かできたのだろうか。そんな考えが頭をよぎった。
「でもね」と彼女は少し笑った。「あなたには話してみようと思ったの。ずっと怖くてできなかったけど、あなたなら受け止めてくれるんじゃないかって、そう思えたから」
そのとき、僕は彼女を抱きしめた。それが彼女にとって正しいことなのかどうかはわからなかったけれど、僕にはそれしかできなかった。彼女の肩越しに、外には冷たい夜の闇が広がっていた。けれど、僕たちの間にだけは、少しだけ温かい光が灯っているような気がした。
彼女はようやく自分の悩みを僕に打ち明けてくれた。その時の彼女の声は、長い間閉じ込められていたものがようやく解放されたときの音のように、どこかぎこちなかった。メモリーがいっぱいになって動かなくなったパソコンのような状態だったのだろう。話し始めた彼女の言葉は、詰まっていたデータが一気に流れ出すように、次々と僕の耳に届いた。
最初は断片的だった。職場での些細な出来事、幼少期の孤独な記憶、そして他人の悲しみに向き合い続けてきた自分自身への疑問。それらはバラバラのピースのように思えたけれど、彼女が話し続けるうちに、それらが一つの大きな絵を描き始めた。
彼女の言葉は止まらなかった。自分の中に溜まり続けていたものをすべて吐き出すことで、彼女自身が少しずつ軽くなっていくのがわかった。まるで、詰まったメモリーが少しずつ解放され、パソコンがまた正常に動き出すような感じだった。そしてそれに伴って、彼女の表情にも少しずつ明るさが戻ってきた。
夜が更ける頃、彼女はふと黙り込んだ。そして僕をまっすぐに見つめながら、ぽつりと言った。
「私はあなたの奥さんなのに、あなたの悩みは何一つ聞いたことがない。本当にダメな奥さんだったよね」
そう言って彼女は涙を流した。その涙は、悲しみというよりも、どこか解放感のようなものを含んでいた。彼女が泣くのを見るのは初めてではなかったけれど、このときの涙は今まで見たどの涙とも違っていた。それは彼女が自分自身を少しだけ許した瞬間の涙だったのかもしれない。
「そんなことないよ」と僕は言った。けれど、彼女は首を横に振った。
「ずっと、誰かを救うことばかり考えてた。あなたがそばにいるのに、それに甘えて、自分ばっかり守られてた。あなたが悩みなんてないわけないのにね」
その言葉を聞いて、僕は少し笑った。そして、彼女の手をそっと握った。
「僕の悩みは君が元気でいてくれるかどうかだったよ。それ以外は、特にないんだ」
彼女は涙を拭いながら、微笑んだ。その笑顔には少しだけ新しい強さが宿っているように見えた。僕たちは静かな夜の中で、互いの存在を確認するように手を握り続けた。
そのとき僕は、これが始まりなんだと思った。彼女が僕に心を開き、僕が彼女を受け止める。僕たちはどこに向かうかなんて知らなかったけれど、それでも一緒にいればきっと大丈夫だと、そんな気がしていた。
僕は彼女と結婚してそばにいることが正解だったと、心から思った。もしあのとき僕が彼女をそのまま放っておいたら、どうなっていただろう。彼女はきっと、これまで通り多くの人の悩みを聞き続け、静かに親身に寄り添い続けただろう。そしてその優しさの代償として、彼女自身が少しずつ壊れていくのが目に見えていた。まるで、毎日少しずつ燃料を使い果たしていくランプのように。
彼女が壊れる前に、僕は間に合った。それが偶然だったのか、必然だったのか、そんなことはどうでもよかった。ただ彼女が今、僕の隣にいてくれること。それがすべてだった。
彼女が自分の悩みを打ち明けてくれたあの日から、僕たちは少しずつ変わり始めた。彼女はもう無理に他人のために走り続けることをやめ、自分の心に耳を傾けることを覚え始めた。そして僕もまた、彼女を支えるだけではなく、彼女に自分の気持ちや思いを伝えることを意識するようになった。それは僕にとって初めての試みだったし、不器用だったけれど、それでも必要なことだった。
「これからは、僕たちの人生を直していこう」と、ある夜彼女に言った。二人でベッドに腰掛け、眠る前の静かな時間だった。彼女は僕の言葉を聞いて、少し驚いたような顔をしたけれど、すぐに微笑んだ。
「直していく、か。そうだね、そうしよう」と彼女は言った。その言葉は、まるで誰かが新しい章を開いたときに感じるような、静かな期待感に満ちていた。
僕たちの人生は壊れていたわけではない。ただ、どこか歪んでいたのだ。長い間、彼女が抱えてきたもの、僕が気づいていなかったもの、それらをひとつひとつ整理していくことが必要だった。そしてそれは、僕たちが一緒にいるからこそできることだった。
朝の光が差し込むキッチンで彼女とコーヒーを飲みながら、これからのことを話す時間が、僕にとっては新しい日常の一部になった。その時間が特別なものではなく、ただの日々として続いていくのがいいと思った。
僕たちの未来がどんなものになるのかはわからない。でも、それでもいい。僕は彼女のそばにいるし、彼女も僕のそばにいる。それだけで、これからどんなことがあっても乗り越えられるような気がしていた。
そうして、僕たちは少しずつ、二人の人生を紡ぎ直していくことにした。まるで、長い冬が終わり、ようやく春が訪れたかのように。